人物

バシレイオス1世

Basil I
AD811年 – AD886年8月29日(享年75・推定)
ビザンツ帝国重要度 4

概要

マケドニア(トラキア)のアルメニア系の農民。ブルガリアの捕虜として育った。コンスタンティノープルで馬丁、相撲、皇帝ミカエル3世の寵臣。皇帝の愛人を妻にさせられ、共同皇帝になり、皇帝を殺した。19年。『バシリカ法典』の準備、パウリキアニ派の討伐、フォティオスの復帰。狩りで鹿に引きずられて死んだ。

関わったできごと(1)

マケドニア朝の始まりAD867年9月24日 · 殺して即位

本文

バシレイオス1世は、貧しい農民から皇帝の寵臣となり、主君を殺して帝位に就き、ビザンツ帝国で最も長く続く王朝を開いた人である。この王朝は、彼の生まれた地方の名を取ってマケドニア朝と呼ばれる(マケドニア朝の始まり)。ただし当時の「マケドニア」は軍管区の名で、いまのギリシア北部ではなく、アドリアノープルの周辺、トラキアの一部を指していた。生まれは811年頃とされるが、830年代とする見方もあり、確かではない。家はアルメニア系の農民だったと伝えられる。

バシレイオス1世の肖像
バシレイオス1世の肖像Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · CC0

彼の生涯を詳しく伝えるのは、孫のコンスタンティノス7世が編ませた伝記である。王朝の始祖をたたえるために書かれたもので、そのまま信じることはできない。伝記は、一家がアルメニアの古い王家アルサケス朝の末裔だったとし、さらにローマのコンスタンティヌス大帝の血まで引くと書く。いずれも皇帝になってから作られた家系だろうと考えられている。同じ伝記によれば、幼いバシレイオスは、813年にブルガリアの君主クルムがアドリアノープルの周りの住民を連れ去ったとき、家族とともにドナウ川の向こうに移され、そこで育ったという。

青年になったバシレイオスは、運を求めて首都コンスタンティノープルに出た。伝記では、城門のそばの教会の軒先で寝ていたところを、皇族の縁者テオフィリツェスの家の者に拾われ、馬の世話係として仕えたとされる。大柄で腕っぷしが強く、馬の扱いにも長けていた。主人の供でペロポネソスに行ったとき、ダニエリスという裕福な寡婦に気に入られ、金や奴隷を贈られたとも伝えられる。

ブルガリア王オムルタグの宮廷にいた若き日のバシレイオス
ブルガリア王オムルタグの宮廷にいた若き日のバシレイオスWikimedia Commons John Skylitzes · Public domain

転機は皇帝ミカエル3世との出会いだった。宮廷の宴で、自慢のブルガリア人の力士を、バシレイオスが軽々と投げ倒した。またあるとき、皇帝の手に負えない暴れ馬を、彼が手なずけてみせた。若い皇帝はこの男を気に入り、身辺に置いた。バシレイオスは馬の長に、ついで皇帝の寝所を守る侍従長に取り立てられる。ミカエルは酒と競馬を好む皇帝で、のちには「酔いどれ」の悪名を負わされた。ただしこの悪名も、彼を殺した側の王朝の史書が広めたものである。

寵愛は奇妙な形をとった。ミカエルは、自分の愛人エウドキア・インゲリナをバシレイオスに嫁がせた。バシレイオスはそのために最初の妻マリアと別れさせられ、ミカエルのほうはバシレイオスの妹を愛人にしたと伝えられる。866年に生まれたエウドキアの子レオン、のちのレオン6世は、バシレイオスの子かミカエルの子か、当時から疑われていた。

ブルガリアの力士との相撲で勝利するバシレイオス(左端)、マドリード・スキュリツェス写本より
ブルガリアの力士との相撲で勝利するバシレイオス(左端)、マドリード・スキュリツェス写本よりWikimedia Commons John Skylitzes · Public domain

宮廷で実権を握っていたのは、皇帝の叔父バルダスだった。学問を重んじ、優れた政治を行った人物である。バシレイオスは皇帝にバルダスへの疑いを吹き込み、866年4月、クレタ島への遠征に出る途中の陣営で、皇帝の目の前でバルダスを斬り殺した。その翌月の5月26日、バシレイオスは共同皇帝に立てられる。だがミカエルの気まぐれは、やがて新たな寵臣を引き上げようとした。身の危険を感じたバシレイオスは、867年9月、宴のあと酔って眠る皇帝の寝室に仲間と押し入り、ミカエルを殺した。馬丁から皇帝への道は、こうして二つの殺人で開かれた。

単独の皇帝となったバシレイオスは、すぐに教会の人事を改めた。ミカエルの時代に総主教となった学者フォティオスを退け、前任のイグナティオスを戻して、対立していたローマ教皇と和解した(フォティオスの分裂)。869年から870年にかけて都で開かれた公会議は、フォティオスを断罪している。だが877年にイグナティオスが死ぬと、バシレイオスはフォティオスを再び総主教に迎えた。フォティオスは皇子たちの教師も務めた。同じころ、北のブルガリアの君主ボリス1世がビザンツから洗礼を受け(ブルガリアの改宗)、ブルガリアの教会がローマとコンスタンティノープルのどちらに属するかが争われたが、870年の会議でコンスタンティノープルの側に付くことが決まった。

フォティオスの分裂に関わる図版:Патриарх фотий
フォティオスの分裂Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

外では、バシレイオスは東の国境を固めた。872年、小アジアの東で帝国に背いていた異端のパウリキアニ派の拠点テフリケを攻め落とし、その勢力を砕いた。西では、南イタリアのアラブ人と戦い、876年にはアドリア海に面したバーリを帝国の手に収めた。一方、シチリアではシラクサが878年にアラブに落とされた。

国の内では、法の整理に力を入れた。6世紀のユスティニアヌスの法典はラテン語で書かれ、すでに読める者が少なくなっていた。バシレイオスはこれをギリシア語で整理し直す事業を始め、実務のための手引きの法書を出させた。この仕事は息子レオン6世のときに、大法典『バシリカ』として実を結ぶ。都の宮殿の中には、880年に「新しい教会」と呼ばれる壮麗な聖堂を献じた。

共同皇帝として即位するバシレイオス1世、マドリード・スキュリツェス写本より
共同皇帝として即位するバシレイオス1世、マドリード・スキュリツェス写本よりWikimedia Commons Unknown, 13th-century author · Public domain

晩年は不幸が続いた。879年、跡継ぎに育てていた最愛の長男コンスタンティノスが死に、バシレイオスは深く嘆き悲しんだ。残されたレオンとの仲は冷え切っていて、レオンが父を狙っているという告発を信じた皇帝は、彼を三年ほど幽閉した。886年8月、狩りに出たバシレイオスは、大きな鹿の角に帯を引っかけられ、そのまま森の中を引きずられた。伝えによれば、従者の一人が剣で帯を切って皇帝を救ったが、皇帝はその男が自分に刃を向けたと言って処刑させたという。8月29日、バシレイオスは傷がもとで死んだ。生年が正しければ75歳前後だった。

帝位はレオン6世が継いだ。レオンは即位するとすぐ、殺されたミカエル3世の遺骨を皇帝の墓所に丁重に移しており、ミカエルが本当の父だったのではないかという噂の根拠にもなっている。いずれにせよ、バシレイオスの開いた王朝は1056年まで190年近く続き、その間に孫の孫にあたるバシレイオス2世のもとで帝国は最も広い版図を取り戻した。殺人で始まった王朝が、ビザンツの文化と国力の黄金時代を作ったのである。

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