人物

プロコピオス

Procopius of Caesarea
AD500年頃 – AD565年頃(享年65・推定)
東ローマ帝国重要度 3

概要

カイサリアの法律家で、ベリサリウスの秘書として戦争に従った。『戦史』8巻でその戦争を、『建築について』で皇帝の建物を、『秘史』で皇帝夫妻の悪行を書いた。疫病の記録は、ペストの最初の記述として読まれる。

所属

東ローマ帝国

関わったできごと(1)

プロコピオス『秘史』AD550年頃 · 著者

本文

500年頃、パレスティナの港町カイサリアに生まれた。ローマ帝国の東方でも指折りの都市で、ギリシア語の教養と法律の学問を身につけるには恵まれた場所だった。家は裕福だったとみられる。法律を学んで弁護士となり、527年、若い将軍ベリサリウスの法律顧問兼秘書として仕えはじめた。ここから20年近く、彼はローマ帝国の大きな戦争をそのすぐそばで見ることになる。

サンガリウス橋の入口に立つ凱旋門
サンガリウス橋の入口に立つ凱旋門Wikimedia Commons Léon de Laborde · Public domain

最初の戦場は東のペルシア国境だった。530年のダラの戦いでベリサリウスがササン朝の大軍を破るのを、翌年カリニコスで敗れるのを見た。532年には都コンスタンティノープルでニカの乱を目撃している。皇后テオドラが逃げようとする皇帝をとどめた演説は、彼の書き残したものによって知られる。533年、ベリサリウスに従って北アフリカへ渡り、ヴァンダル王国を滅ぼす戦いに加わった。カルタゴに入城した日、ローマ軍は前の晩に敵の王のために用意されていた食卓で食事をとった、と彼は書いている(ユスティニアヌスの再征服)。

535年からはイタリアの戦争に従った。537年から翌年にかけて東ゴート軍がローマを包囲したとき(ベリサリウスのローマ奪還)、ベリサリウスは彼をナポリへ送り、援軍と食糧を集めさせた。彼は兵を集め、穀物を船に積んでローマへ戻った。540年、ベリサリウスがラヴェンナを落とすのを見届けたあと、都に戻ったとみられる。

542年、コンスタンティノープルを疫病が襲った(ユスティニアヌスの疫病)。彼はその場にいた。病は、熱のあとに脚の付け根や脇の下が腫れ上がり、ある者は昏睡に、ある者は錯乱に陥り、多くは数日で死んだ。死者は一日5000人、やがて1万人を超え、埋葬が追いつかず、遺体は城壁の塔に詰め込まれた。この記録は、腫れ物の症状を細かく描いていることから、のちにペストの最初の確かな記述の一つと読まれるようになった。21世紀には、当時の墓から掘り出された人骨からペスト菌の遺伝子が見つかっている。

ユスティニアヌスの疫病に関わる図版:Plaguet03
ユスティニアヌスの疫病Wikimedia Commons Josse Lieferinxe · Public domain

主著『戦史』8巻は、ペルシア戦争2巻、ヴァンダル戦争2巻、ゴート戦争4巻からなる。最初の7巻は550年頃に出され、第8巻が553年頃に書き足された。古代ギリシアの歴史家トゥキュディデスを手本とし、将軍たちの演説を挟み、戦場となった土地の地理や住む人々の風俗を書き込んだ。自分の目で見たことと人から聞いたことをはっきり分けて書く姿勢は、6世紀の史書として際立っている。ベリサリウスに近い立場から書かれているが、後半に進むにつれ、将軍への失望もにじむ。

もう一つの著作『建築について』6巻は、ユスティニアヌス1世が帝国じゅうに建てた教会や城塞、橋や水道を称えたもので、皇帝の意向を受けて書かれたとみられる。最初に取り上げられるのがハギア・ソフィアの完成で、巨大なドームが石の上に載っているのではなく、天から金の鎖で吊るされているように見えると書いている。

ところが同じ著者が、皇帝夫妻を罵る本も書いていた。『秘史』である(プロコピオス『秘史』)。冒頭で彼は、これまでの著作では、関係者が生きているあいだは恐れから本当のことを書けなかったと断る。そして、ユスティニアヌスは人の姿をした悪魔で、臣民の財産を奪い、数え切れない人を死なせた、テオドラは若いころ劇場の踊り子として身を売っていた、と口をきわめて書き立て、ベリサリウスも妻の言いなりの臆病者として描く。生前に公にされることはなく、写本は長く埋もれ、1623年にヴァチカン図書館の写本から初めて出版された。

同じ人物がなぜ皇帝を讃える本と罵る本を書いたのか。『建築について』は『秘史』のあとに書かれた可能性が高く、研究者を悩ませてきた。宮廷に身を置く者として表では讃え、裏では恨みを書き残した、と見るのが一般的だが、どこまで本音だったかは分からない。

晩年のことはほとんど分からない。562年に都の長官を務めたプロコピオスという人物が記録にあり、同じ人だとする説もあるが、確かではない。565年頃に死んだとみられる。ユスティニアヌスと同じころだった。

18世紀、エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』で6世紀の章をほとんどプロコピオスに頼って書いた。『秘史』の扱いには慎重であれと言いながら、その毒の効いた話をうまく使っている。プロコピオスがいなければ、ユスティニアヌスの時代は、征服された土地の名と、残された建物しか伝わらなかったかもしれない。

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