人物

シメオン1世

Simeon I of Bulgaria
AD864年頃 – AD927年(享年63・推定)
第一次ブルガリア帝国重要度 3

概要

コンスタンティノープルで学び、「半分ギリシア人」と呼ばれた。皇帝を名乗り、ビザンツを何度も破り、コンスタンティノープルの城壁の下まで来た。プレスラフに黄金の教会を建て、スラヴ語の文学の最初の黄金時代を作った。

所属

第一次ブルガリア帝国

関わったできごと(1)

シメオンの皇帝称号AD913年 · 皇帝

本文

シメオンは、864年ごろ、ブルガリアの君主ボリス1世(ボリス1世)の三男として生まれた。彼が生まれたころ、父ボリスは東ローマ帝国(ビザンツ)からキリスト教の洗礼を受け、国を改宗させようとしていた(ブルガリアの改宗)。ブルガリアは、7世紀にバルカン半島の北東に入ってきたテュルク系のブルガール人が、先に住んでいたスラヴ人を従えて建てた国で、ボリスは、キリスト教を受け入れることで国をまとめ、ヨーロッパの諸国と肩を並べようとしていた。

ブルガリアの改宗に関わる図版:Baptism of the Preslav Court
ブルガリアの改宗Wikimedia Commons Nikolai Pavlovich (1835-1894) · Public domain

三男のシメオンは、王位を継ぐのではなく、教会の指導者になるよう育てられた。少年のころ、彼はコンスタンティノープルに送られ、10年ほどにわたってギリシアの学問を学んだ。古典の弁論術と論理学を身につけ、デモステネスやアリストテレスを読んだと伝えられる。10世紀のイタリアの年代記作家リウトプランドは、彼を「半分ギリシア人」と呼んでいる。ブルガリアに戻ったシメオンは修道士となり、都の近くの修道院で、ギリシア語の宗教書をスラヴ語に訳す仕事に携わった。そのころブルガリアには、キュリロス(キュリロス)とメトディオス(メトディオス)の兄弟が作ったスラヴの文字と典礼を受け継ぐ弟子たちが、モラヴィアを追われて身を寄せていた(スラヴ語への伝道)。

889年、ボリスは位を長男のウラジーミルに譲って修道院に入った。ところがウラジーミルは、キリスト教を捨てて古い神々の信仰に戻ろうとし、ビザンツから離れようとした。893年、ボリスは修道院を出て息子を廃し、その目をつぶして、国の重臣を集めた会議を開いた。そこで修道士のシメオンが君主に立てられた。同じ会議は、都を古いプリスカから新しいプレスラフに移し、教会と国の言葉を、ギリシア語からスラヴ語に改めることを決めたとされる。

シメオン1世に関連するブルガリアの風景(ヴィディン、2013年5月)
シメオン1世に関連するブルガリアの風景(ヴィディン、2013年5月)Wikimedia Commons Nikolai Karaneschev · CC BY 3.0

学問の人として育ったシメオンは、同時に恐るべき戦の指導者でもあった。894年、ビザンツが、ブルガリアの商人の市場をコンスタンティノープルから遠いテッサロニキへ移し、重い税をかけると、シメオンは兵を挙げた。ビザンツは北の遊牧民マジャル人を雇ってブルガリアの背後を襲わせたが、シメオンはさらに東の遊牧民ペチェネグと手を結んでマジャル人を追い払い、896年、ブルガロフィゴンの戦いでビザンツの軍を打ち破った。ビザンツは毎年の貢ぎ物を払う約束をして和を結んだ。904年、テッサロニキがアラブの海賊に略奪されて弱ったときも、シメオンは兵を進め、ビザンツから土地を譲らせた。

913年、ビザンツの皇帝アレクサンドロスが貢ぎ物を払うことを拒み、まもなく亡くなった。後を継いだのは7歳のコンスタンティノス7世だった。シメオンはこの機をとらえ、大軍を率いてコンスタンティノープルの城壁の前に迫った。幼い皇帝の摂政を務めていた総主教ニコラオス・ミスティコスは、城外でシメオンと会い、ある種の冠を授け、シメオンの娘と幼い皇帝との婚約も約束したとされる(シメオンの皇帝称号)。シメオンは、ビザンツの皇帝の義父となり、帝国そのものの頂点に近づこうとしていたのかもしれない。だが翌914年、幼帝の母ゾエが実権を握ると、この約束は反故にされた。総主教はのちに、自分はただ自分の頭巾を彼の頭に載せただけだと書いている。

マケドニアでビザンツ軍(将軍プロコピオス・クレニテスとクルティキオスが指揮)を破るシメオン1世の軍(マドリード・スキュリツェス)
マケドニアでビザンツ軍(将軍プロコピオス・クレニテスとクルティキオスが指揮)を破るシメオン1世の軍(マドリード・スキュリツェス)Wikimedia Commons from the Middle Ages, unknown · Public domain

怒ったシメオンは再び戦った。917年8月20日、黒海沿岸のアケロオス川のほとりで、ブルガリアの軍はビザンツの大軍を壊滅させた。この時代で最も血なまぐさい戦いの一つで、数十年後の歴史家は、その場所にはまだ兵士たちの骨の山が残っていたと書いている。シメオンは「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗り、バルカン半島の大半を支配下に置いた。セルビアの諸侯も従えた。924年、彼は再びコンスタンティノープルの前に現れ、皇帝ロマノス1世と会見した。だが、陸の側を三重の城壁で、残りを海で守られた都を落とすには、海軍が無かった。シメオンは戦わずに引き揚げた。926年、西のクロアチアに送った軍が大敗し、翌927年5月27日、シメオンは心臓の病で亡くなった。60代の半ばだった。

彼の死後、跡を継いだ息子ペタルはビザンツと和を結び、ビザンツはブルガリアの君主に皇帝(ツァーリ)の称号を認め、ブルガリアの教会は独立した総主教を持つことを許された。だが国力は衰え、10世紀の後半にはビザンツの反撃が始まる。のちにサムイルが抵抗を続けるが、11世紀のはじめ、第一次ブルガリア帝国はビザンツに併合された。

917年、アンヒアロスでのブルガリアの勝利(マドリード・スキュリツェス)
917年、アンヒアロスでのブルガリアの勝利(マドリード・スキュリツェス)Wikimedia Commons Unknown, 13th-century author · Public domain

シメオンの時代が「黄金時代」と呼ばれるのは、戦の勝利よりも、文化のためである。プレスラフには、金箔で飾られた丸屋根の「黄金の教会」が建てられ、焼き物の板に聖人を描いたイコンが作られた。シメオンのもとには学者や翻訳者が集まり、ギリシア語の神学書や歴史書が次々にスラヴ語に訳された。ヨアン・エクザルフは、天地創造の六日間を論じた『六日の書』を書き、その中で、豊かな都プレスラフとそこに住む君主の姿を描いている。修道士フラーバルは『文字について』で、ギリシアの文字は異教徒たちが長い時をかけて作ったが、スラヴの文字は一人の聖人がわずかな年月で作ったものだと、スラヴの文字を誇った。

いまロシアやブルガリア、セルビアなどで使われているキリル文字は、キュリロスの名を冠しているが、彼自身が作ったのはグラゴル文字と呼ばれる別の文字だった。キリル文字は、このシメオンの時代のプレスラフで、ギリシア文字をもとに、グラゴル文字のいくつかの字を加えて整えられたと考えられている。スラヴの言葉で書く文学と文字の伝統は、シメオンの宮廷から、セルビアやロシアへと広がっていった。

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