人物

アラリック

Alaric I
AD370年頃 – AD410年(享年40・推定)
西ゴート重要度 4

概要

ドナウのゴート人。テオドシウスの下で戦い、待遇に怒って王に。ギリシアを荒らし、イタリアに三度入り、410年8月にローマの塩の門が開いた。3日。800年ぶりの略奪。南へ向かい、コゼンツァで死んだ。川の流れを変えて埋め、戻して、奴隷を殺した。墓は見つかっていない。

関わったできごと(1)

西ゴートのローマ略奪AD410年8月24日 · 王

本文

アラリックは370年頃、ドナウ川の河口近くの島で生まれたと、同時代の詩人クラウディアヌスは書いている。ゴート人のうちテルヴィンギと呼ばれる集団の出で、のちの歴史家ヨルダネスは、名門バルティ家の生まれだとする。376年、東から押し寄せたフン人の西進とゲルマンの移動の圧力を受けて、ゴート人は大挙してドナウ川を渡り、ローマ帝国の領内に逃げ込んだ。アラリックは、その難民の子どもとして育った。

ローマの役人たちは逃げてきたゴート人を食い物にし、怒ったゴート人は反乱を起こした。378年のハドリアノポリスの戦いで、東の皇帝ウァレンスは戦死した。その後を継いだテオドシウス1世は、382年にゴート人と条約を結び、帝国の中に住む土地を与える代わりに、同盟軍として兵を出させた。394年、テオドシウスが西の簒奪者と戦ったフリギドゥス川の戦いで、アラリックはゴート人の部隊を率いて先陣に立った。ゴート人はおよそ1万人が戦死したと伝えられる。ローマのために血を流したという思いと、使い捨てにされたという恨みが、アラリックの生涯を貫いていく。

ハドリアノポリスの戦いに関わる図版:Battle of Adrianople 378 en
ハドリアノポリスの戦いWikimedia Commons Bitva_u_Adrianopole.gif : Elias84 derivative work: Dipa_1965 ( talk ) · Public domain

395年、テオドシウスが死に、帝国は二人の幼い息子に東西に分けて継がれた。この年、アラリックはゴート人に王として推され、ローマに対して、正規の将軍の地位と、部下を養う土地と食糧を求めた。答えが得られないと、ギリシアに攻め込み、コリントス、アルゴス、スパルタを略奪した。アテナイは略奪を免れたと伝えられる。西の帝国の実権を握る将軍スティリコが二度にわたって討伐に来たが、そのたびにアラリックは逃げおおせた。東の宮廷は397年、アラリックをイリュリクムの軍司令官に任じて懐柔した。

401年、アラリックはイタリアに入った。402年の復活祭の日、ポッレンティアでスティリコの軍に襲われて妻子を捕らえられ、続いてヴェローナでも敗れて退いた。407年、スティリコはアラリックと手を組もうとし、元老院に金4000ポンドを払わせた。元老院議員の一人は、これは平和ではなく隷従の契約だ、と叫んだという。

アテネに入るアラリックと西ゴート軍(1920年代の挿絵)
アテネに入るアラリックと西ゴート軍(1920年代の挿絵)Wikimedia Commons Allan Stewart · Public domain

408年8月、スティリコは皇帝ホノリウスの宮廷で反逆を疑われて処刑された。ローマ兵はイタリアの町々に住むゲルマン人の兵士の家族を殺し、生き残った約3万人の兵がアラリックのもとへ逃げ込んだ。アラリックはローマを囲み、元老院は金5000ポンド、銀3万ポンド、絹の衣4000着、赤く染めた革3000枚、胡椒3000ポンドを払って囲みを解かせた。あとに何が残るのかと問われたアラリックは、命が残る、と答えたと伝えられる。

それでもラヴェンナに籠もる皇帝ホノリウスは、アラリックの求めに応じなかった。アラリックは409年に再びローマを囲み、元老院に元老院議員アッタルスを対立皇帝に立てさせたが、交渉の道具にならないと見ると、翌年その位を取り上げた。410年8月24日、ローマの北東のサラリア門が開き、ゴート人の軍勢が市内になだれ込んだ(西ゴートのローマ略奪)。門は内側から開けられたとも言われる。略奪は3日続いた。アラリックはアリウス派のキリスト教徒で、教会を襲わず、聖ペテロと聖パウロの聖堂に逃げ込んだ者には手を出さないよう命じたとされる。

西ゴートのローマ略奪に関わる図版:Visigoths sack Rome
西ゴートのローマ略奪Wikimedia Commons Joseph-Noël Sylvestre · Public domain

外敵がローマの市内に入ったのは、紀元前390年頃のケルト人のローマ略奪以来、およそ800年ぶりだった。ベツレヘムにいたヒエロニムスは、全世界の光が消えた、と手紙に書いた。異教の人々は、古い神々を捨てたからローマは罰を受けたのだと言い、北アフリカの司教アウグスティヌスは、それに答えるために『神の国』を書き始めた(『神の国』)。

アラリックの求めたものは、ローマを滅ぼすことではなく、ローマの中に部下たちの居場所を得ることだったと考えられている。彼は皇帝の妹ガッラ・プラキディアを人質に連れて南へ向かい、穀物の豊かなアフリカへ渡ろうとした。だが、イタリアの南端で船団は嵐に遭い、引き返したところで病に倒れ、南イタリアのコゼンツァで死んだ。40歳前後だった。

アラリック1世
アラリック1世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ヨルダネスによれば、ゴート人は捕虜に命じてブセント川の流れを変えさせ、川底に王を財宝とともに葬ってから流れを元に戻し、場所が知られないよう、工事をした捕虜を皆殺しにしたという。墓はいまも見つかっておらず、宝探しの伝説の種になっている。

後を継いだ義弟アタウルフは、ガッラ・プラキディアを妻とし、ゴート人を率いてガリアへ移った。ゴート人はやがて南フランスのトゥールーズを都に王国を築き(西ゴート王国)、のちにスペインのトレドへ拠点を移して、711年まで続いた。アラリックのローマ略奪は3日で終わり、ローマの町は残った。だが、ローマは落ちることがある、と誰もが知ったのである。66年後、西ローマ帝国の滅亡が訪れる。

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