できごと

タイタニックの沈没

The sinking of the Titanic
AD1912年4月15日
重要度 5
タイタニックの沈没に関わる図版:Stöwer Titanic
Stöwer Titanic Wikimedia Commons Willy Stöwer · Public domain

概要

処女航海の4日目、夜11時40分に氷山と接触し、2時間40分で沈んだ。2224人のうち1514人が死んだ。救命艇は定員の半分ぶんしかなく、法令はそれを満たしていた(船の大きさでなく総トン数で決める古い規則)。無線技士は氷山の警告を「取り込み中」と断っていた。翌年の海上人命安全条約(SOLAS)で、全員分の救命艇、無線の24時間当直、氷山監視が定められた。

場所

タイタニック沈没地点
41.73°N -49.95°E · 北大西洋

本文

20世紀の初め、北大西洋の定期航路は、ヨーロッパとアメリカを結ぶ大動脈だった。一等の船室には富豪や名士が乗り、船底に近い三等の船室には、新しい暮らしを求めてアメリカへ渡る移民がひしめいた。彼らの多くは、ニューヨークに着くとエリス島の移民検査場で入国の検査を受けた。イギリスの海運会社キュナードが速さを売りにする一方、ライバルのホワイト・スター・ラインは、大きさと豪華さで勝負しようとした。ベルファストのハーランド・アンド・ウルフ造船所で造られた姉妹船の2番目が、タイタニックである。

全長269メートル、総トン数4万6千トンあまり。完成したときには世界最大の客船だった。船体は16の水密区画に分けられ、前の4区画までなら水が入っても浮いていられる設計だった。造船の専門誌は「事実上沈まない」と書き、それが人々の間で伝わるうちに「不沈の船」という評判になった。会社が公式に不沈をうたった証拠は薄いとされる。

プリンツ・アダルベルト号の乗組員が1912年4月15日に撮影した氷山。タイタニック号が衝突した氷山と考えられている。
プリンツ・アダルベルト号の乗組員が1912年4月15日に撮影した氷山。タイタニック号が衝突した氷山と考えられている。Wikimedia Commons The chief steward of the liner Prinz Adalbert · Public domain

ただ、設計には弱点があった。区画を仕切る壁は、天井まで届いていなかった。船首が沈んで傾くと、水は壁の上を越えて隣の区画へあふれ出す。製氷皿に水を注いだときのように、区画は次々と満たされていく。

救命艇は20隻、定員は合わせて1178人だった。乗っていた2200人あまりの半分ほどである。これは法に反してはいなかった。イギリスの規則は、1万トンを超える船には16隻以上の救命艇を備えるよう定めていたが、1万トンという線はこの規則ができた19世紀の終わりの最大級の船を想定したもので、4万トンを超える船は想定の外にあった。設計に関わった技師はもっと多くの救命艇を提案したが、甲板が狭く見えることなどを理由に減らされたとされる。

解説つきのタイタニックの図面。緑が損傷を受けた箇所、船底の機関エリアは青字で注釈がある。図上部記載の縮尺スケールの最小目盛は10フィート (3.0 m)、縮尺スケールの全長は400フィート (120 m)である。
解説つきのタイタニックの図面。緑が損傷を受けた箇所、船底の機関エリアは青字で注釈がある。図上部記載の縮尺スケールの最小目盛は10フィート (3.0 m)、縮尺スケールの全長は400フィート (120 m)である。Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

1912年4月10日、タイタニックはイギリスのサウサンプトンを出港した。フランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウンに寄って乗客を乗せ、ニューヨークへ向かった。4月14日、まわりの船から、氷山や流氷を知らせる無線の警告が何度も届いた。そのいくつかは、船長や当直の航海士のもとまで届かなかった。当時の無線は、マルコーニの大西洋横断無線から10年ほどしかたっていない新しい技術で、無線技士はマルコーニ社の社員だった。彼らの主な仕事は、乗客が陸へ送る電報をさばくことだった。夜、近くで流氷に囲まれて止まっていたカリフォルニアン号が警告を送ってきたとき、タイタニックの無線技士は、陸の局へ乗客の電報を送るのに追われていて、「黙れ、忙しい」と打ち返したと伝えられる。カリフォルニアンの無線技士は、まもなく寝てしまった。

4月14日の夜11時40分、見張り台のフレデリック・フリートが、真正面に氷山を見つけた。鐘を鳴らし、ブリッジに電話で知らせた。当直の一等航海士ウィリアム・マードックは舵を切らせ、機関を止めるよう命じたが、間に合わなかった。船の右舷が氷山にこすれた。大きな穴が開いたのではなく、鋼板をとめる鋲が飛び、継ぎ目が開いて、前の方の5つか6つの区画に水が流れ込んだ。設計の限界を超えていた。船を設計したトマス・アンドルーズは、船はあと1時間か、もって2時間だと見積もった。彼はこの船とともに死んだ。

タイタニックの船長エドワード・J・スミス(1911)
タイタニックの船長エドワード・J・スミス(1911)Wikimedia Commons Public domain

夜中の0時すぎ、救命艇の用意が始まり、0時45分ごろ、最初の救命艇が降ろされた。65人乗りの艇に、乗っていたのは30人足らずだった。まだ多くの乗客は、この大きな船が本当に沈むとは思っていなかった。「女性と子どもを先に」という命令は、船の左右で違う形で守られた。左舷を受け持った二等航海士は女性と子どもだけを乗せ、右舷のマードックは、女性と子どもがいなければ男性も乗せた。その違いが、生き残った人の数に表れている。

4月15日の午前2時20分、船は二つに折れて沈んだ。海の水温は氷点下に近かった。救命胴衣を着て海に浮かんだ人々も、多くは数十分のうちに冷たさで力尽きた。救命艇の多くには空きがあったが、引き返して人を拾ったのはごくわずかだった。午前4時ごろ、遭難信号を受けて夜の海を急いだキュナードのカルパチア号が到着し、救命艇から700人あまりを救い上げた。死者は1500人を超えた。

タイタニックの救命ボート訓練。写真中央付近の最上部(ボートの右上)にスミス船長の姿が見える。(1912年4月10日)
タイタニックの救命ボート訓練。写真中央付近の最上部(ボートの右上)にスミス船長の姿が見える。(1912年4月10日)Wikimedia Commons Francis Browne · Public domain

誰が生き残ったかには、はっきりした差があった。一等の女性客はほとんどが助かったが、三等の女性客は半分も助からなかった。三等の男性客の多くは死んだ。三等の船室は船底に近く、通路は入り組み、英語の分からない乗客も多かった。三等の客が意図して閉じ込められたという証拠は確かめられていないが、移民を他の客と分ける仕切りが、避難を遅らせたところがあったとされる。

事故のあと、イギリスとアメリカで調査が行われた。1914年、各国は海上での人命の安全を定める国際条約を結んだ。救命艇は乗っている全員の分を備えること、救命艇の訓練をすること、無線を24時間聞き続けることなどが定められた。北大西洋の氷山を見張って船に知らせる国際氷山監視も始まり、いまも続いている。条約は第一次世界大戦のために発効が遅れたが、その考え方は以後の船の安全の基準になった。3年後の1915年には、同じ航路でルシタニア号の撃沈が起き、今度は戦争が船を沈めた。

「悲しい別れ」、1912年
「悲しい別れ」、1912年Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

1985年9月1日、アメリカとフランスの合同調査が、ニューファンドランド島の沖、水深3800メートルほどの海底に沈んだ船体を見つけた。船首と船尾は、600メートルほど離れて横たわっていた。調査を率いたロバート・バラードは、のちに、この探索が米海軍の沈んだ原子力潜水艦を調べる秘密の任務の残りの日程を使って行われたことを明かしている。

死者の数で言えば、タイタニックは史上最悪の海難ではない。それでも語り継がれ、何度も映画になってきたのは、この事故が時代の自信そのものを裂いたからだろう。最新の技術、最大の船、最初の航海。富豪と移民が同じ船に乗り合わせ、その生死を分けたものが見えてしまったこと。そして、無線という新しい技術が、この悲劇をほとんど同時に世界へ伝えたことである。

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