バドン山の戦い(伝承)
概要
ギルダスが「私が生まれた年の、サクソン人に対する最後の大勝利」と書いた。誰が指揮したかは書かなかった。300年後にネンニウスが「アーサーが960人を一人で倒した」と足した。ブリトン人はそれから50年、西を保った。アーサー王の話は、この一行から育った。
場所
51.38°N -2.36°E · イギリス・サマセット
関わった人(1)
アーサー王指揮したと伝える本文
5世紀のはじめ、ローマの軍がブリテン島から引き揚げると、島の南部に住むブリトン人は、自分たちで身を守らなければならなくなった。北からはピクト人、西の海からはアイルランドのスコット人が襲い、東の海の向こうからはアングル人、サクソン人、ジュート人などのゲルマンの人々が渡ってきた(アングロ・サクソンのブリテン移住)。はじめは雇われた兵として招かれたとも伝えられるサクソン人は、やがて土地を奪い、ブリトン人を西へと押しやっていった。この時代のことを書いた同時代の記録は、ほとんど残っていない。そのわずかな記録の一つが、バドン山の戦いを伝えている。
伝えたのは、ブリトン人の修道士ギルダスである。彼は6世紀の前半、おそらく540年ごろまでに、『ブリタニアの破滅について』と呼ばれるラテン語の書を書いた。歴史書というより、同胞の王や聖職者の堕落を激しく責める説教の書で、そのために過去の出来事を振り返っている。ギルダスによれば、サクソン人の襲撃でブリタニアが荒らされたあと、ローマの家柄の生き残りであるアンブロシウス・アウレリアヌスのもとにブリトン人が集まって反撃した。それからは勝ったり負けたりが続いたが、バドン山の包囲に至った。それは敵に対する最後の、決して小さくない殺戮だった、と彼は書く。

ギルダスは、その年について謎めいた一文を残している。それは自分が生まれた年でもあり、それから44年と1か月が過ぎた、と読める文である。素直に読めば、バドンの戦いはギルダスが生まれた年で、彼はその44年後にこの書を書いたことになる。だが原文はラテン語の構文が入り組んでいて、別の起点から数えた44年だとする読み方もある。ギルダスの生年も、書いた年も確かでないため、戦いの年は490年から520年ごろまでの幅で推定され、500年ごろとされることが多い。場所も分からない。ラテン語で「バドニクスの山」と呼ばれるこの丘は、イングランド南西部のバース近くの丘とする説が古くからあるが、ドーセットのバドバリーの古い砦、ウィルトシャーのリディントンの砦など、名の似た地がいくつも候補に挙がっている。
そしてギルダスは、この勝利を誰が率いたかを書いていない。名を挙げているのはアンブロシウスだけである。アーサーの名がバドンと結びついて現れるのは、300年ほどのちの830年ごろにウェールズでまとめられた『ブリトン人の歴史』(ネンニウスの作と伝えられる)が最初だった。そこでアーサーは、ブリトン人の王たちとともに戦った「戦いの指導者」とされ、12の戦いが並べられている。その最後がバドン山で、一日のうちに960人がアーサーひとりの突撃で倒れた、と書かれている。10世紀にまとめられた『カンブリア年代記』は、バドンの戦いでアーサーがキリストの十字架を三日三晩肩に負ってブリトン人が勝ったと記し、その21年後の項に、アーサーとメドラウトが倒れたカムランの戦いを記す。
この短い記事から、伝説は大きく育っていった。1136年ごろ、ジェフリー・オブ・モンマスは『ブリタニア列王史』で、アーサーをブリテンの王とし、父ウーサー、魔法使いマーリン、王妃グィネヴィア、名剣、裏切り者モードレッドを配して、ヨーロッパに覇を唱える大王の物語を作った。1155年には、ノルマンの詩人ワースがこれをフランス語の韻文に移し、そこで初めて円卓が登場する。12世紀の後半には、フランスのクレティアン・ド・トロワが、騎士ランスロットの恋や、聖杯を探す騎士の物語を書いた。1485年、イングランドで最初の印刷業者キャクストンが、グーテンベルクの活版印刷から30年ほどのちの活版の技術で、トマス・マロリーの『アーサー王の死』を印刷し、英語のアーサー王物語の決定版になった(アーサー王)。

では、アーサーは実在したのか。考古学からは、6世紀の前半のしばらくのあいだ、アングロ・サクソンの人々の墓地がブリテン島の西へ広がる勢いが止まった、あるいは鈍ったように見えることが指摘されている。ギルダスも、自分の時代には外敵との戦争は収まっていたと書いている。5世紀の終わりから6世紀のはじめに、誰かがサクソン人の西への進出を一時止めたことは、ありそうなことだ。その指導者がアンブロシウスだったのか、アーサーという名の人物だったのか、あるいは別の誰かだったのかは分からない。アーサーという名は、ローマの氏族の名アルトリウスに由来するとする説が有力である。
いまの歴史家の多くは、同時代の記録に名の無いアーサーを、実在した人物として扱うことに慎重である。それでも、彼の実在を信じる人がいなくなることはない。確かなのは、ギルダスが名を書かなかった一つの勝利が、のちの人々の願いを吸い込んで、ヨーロッパで最も愛される伝説の一つに育ったということである。バースの町では、ローマ時代の浴場が、この戦いのころにはすでに使われなくなり、泥に埋もれつつあったと考えられている。