できごと

トロイア戦争(伝承)

Trojan War
BC1200年頃(伝承)
年に諸説あり重要度 4
トロイア戦争(伝承)に関わる図版:Akhilleus Patroklos Antikensammlung Berlin F2278
Akhilleus Patroklos Antikensammlung Berlin F2278 Wikimedia Commons Sosias (potter, signed). Painting attributed to the Sosias Painter (name piece for Beazley, overriding attribution) or t · Public domain

概要

ホメロスが歌った戦い。トロイアの遺跡には破壊層があるが、叙事詩どおりの出来事だったかは分からない。

場所

トロイア
39.96°N 26.24°E · トルコ・チャナッカレ県

本文

トロイア戦争は、ギリシア人にとって自分たちの歴史の出発点だった。物語の筋はこうである。トロイアの王子パリスが、スパルタの王メネラオスの妃ヘレネを連れ去った。メネラオスの兄でミュケナイの王アガメムノンを総大将に、ギリシアの英雄たちが千隻の船で海を渡り、トロイアを10年にわたって囲んだ。英雄アキレウスはトロイアの王子ヘクトルを討ち、自らも矢に倒れた。最後に、ギリシア軍は大きな木馬の中に兵を隠して城内に送り込み、夜のうちにトロイアを焼き払った。

この戦いを歌った最も古い作品が、ホメロスの作とされる『イリアス』と『オデュッセイア』である(『イリアス』『オデュッセイア』の成立)。ただし『イリアス』が描くのは、10年目のうちのわずか50日ほどの出来事で、アキレウスの怒りとヘクトルの葬儀で終わる。木馬の話は『オデュッセイア』の中で回想として語られ、トロイアの陥落の場面を詳しく描いたのは、ずっと後のローマの詩人ウェルギリウスのウェルギリウス『アエネイス』だった。叙事詩が今の形にまとめられたのは紀元前8世紀ごろとされ、戦争の時代から400年以上たっている。

ウェルギリウス『アエネイス』に関わる図版:Aeneas' Flight from Troy by Federico Barocci
ウェルギリウス『アエネイス』Wikimedia Commons Federico Barocci · Public domain

古代のギリシア人は、この戦争を実際にあった出来事だと信じていた。学者エラトステネスは、トロイアの陥落を今の暦でいう紀元前1184年ごろと計算した。アレクサンドロス3世はアジアへ渡るとき、トロイアの地に立ち寄り、アキレウスの墓とされる塚に花輪を捧げたと伝えられる。だが近代に入ると、トロイア戦争は神話にすぎず、トロイアという町が実在したかどうかも疑わしい、と考えられるようになった。

それを覆そうとしたのが、ドイツの実業家ハインリヒ・シュリーマンである。少年のころから叙事詩を史実と信じていた彼は、商売で財を成した後、1870年からトルコ北西部、ダーダネルス海峡の入口に近いヒサルルクの丘を掘った。この丘がトロイアだと最初に目をつけ、試掘していたのはイギリス人のフランク・カルヴァートで、シュリーマンはその土地で発掘を進めた。

『パリスの審判』(ルーベンス画)
『パリスの審判』(ルーベンス画)Wikimedia Commons Peter Paul Rubens · Public domain

丘の中からは、町が何度も建て直された跡が、何層にも重なって現れた。少なくとも九つの時代の町が、紀元前3000年ごろからローマ時代まで積み重なっていた。1873年、シュリーマンは金の冠や首飾りなどの財宝を掘り当て、これを「プリアモスの財宝」と名づけた。だがその後の調査で、財宝が出た層はトロイア戦争の時代より1000年以上も古いことが分かった。シュリーマンは丘の中央に大きな溝を掘り進めたため、肝心の時代の層の多くを壊してしまったとも批判されている。財宝は第二次世界大戦の末にベルリンからソ連に持ち去られ、いまはモスクワの美術館にある。

その後の研究者たちは、紀元前1300年ごろに栄えた第6層と、それに続く第7層の前半に注目した。第6層の町は堅固な城壁を持ち、大きな建物が並んでいた。第7層の前半の町は、紀元前1200年前後に火災で破壊されている。1980年代末からのドイツの調査で、城塞の下に広い市街地が広がっていたことも分かり、トロイアは小さな砦ではなく、この地域の有力な町だったと考えられるようになった。

不和の黄金の林檎(ヤコブ・ヨルダーンス画)
不和の黄金の林檎(ヤコブ・ヨルダーンス画)Wikimedia Commons Jacob Jordaens / After Peter Paul Rubens / Peter Paul Rubens · Public domain

同じ時代のヒッタイトの粘土板にも、手がかりがある。ヒッタイト帝国は、アナトリアの西の端に「ウィルサ」という属国を持っていた。ウィルサの王アラクサンドゥと結んだ条約も残っており、その名はパリスの別名アレクサンドロスとよく似ている。また、ヒッタイトの文書には、海の向こうの「アヒヤワ」という勢力がアナトリアの西岸で騒ぎを起こし、ウィルサをめぐってヒッタイトと争ったことが記されている。ウィルサをトロイアの古い名イリオスに、アヒヤワをホメロスがギリシア人を呼ぶアカイア人にあてる説は、いまでは多くの研究者に受け入れられている。

紀元前1200年ごろは、東地中海の世界全体が崩れた時代でもあった。ミュケナイなどギリシアの宮殿は次々に滅び(ミュケナイの興り)、ヒッタイト帝国も倒れ、エジプトは「海の民」の侵入に苦しんだ(海の民の侵入と青銅器時代の終わり)。トロイアの破壊も、この大きな混乱の一部だったのかもしれない。

炎上するトロイア(ヨハン・ゲオルク・トラウトマン画、1759〜62年)
炎上するトロイア(ヨハン・ゲオルク・トラウトマン画、1759〜62年)Wikimedia Commons Johann Georg Trautmann · Public domain

結局のところ、トロイア戦争が叙事詩どおりの出来事だったかどうかは分からない。ヘレネの誘拐も、10年の包囲も、木馬も、確かめる手立てはない。何度かの戦いや襲撃の記憶が、何百年も歌い継がれるうちに一つの大きな物語にまとまったと考える研究者も多い。それでも、トロイアという町が実在し、紀元前1200年前後に焼け落ち、ギリシアの人々とアナトリアの勢力がこの地で争っていたことまでは、考古学と文書から言えるようになった。神話と歴史の境目は、いまも少しずつ掘り進められている。

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