ルーシの成立
概要
北欧から来た集団が東欧の川筋に拠点を作った。年代記の伝える建国譚で、どこまで史実かは分かっていない。
場所
58.52°N 31.28°E · ロシア
本文
ルーシの始まりを語るのは、12世紀の初めにキーウの洞窟修道院でまとめられた『原初年代記』である。そこには、862年のこととして、次のような話が記されている。北のスラヴ人とフィン系の諸部族は、海の向こうから来て貢ぎ物を取り立てていたヴァリャーグ(ヴァイキング)を追い払った。ところが自分たちだけで治めようとすると、部族どうしで争いが絶えない。
そこで彼らは再び海の向こうへ使いを送り、こう頼んだという。我らの土地は広く豊かだが、秩序が無い。来て我らを治めてくれ、と。

招きに応じて、リューリクとその二人の兄弟が一族を連れてやってきた。リューリクはノヴゴロドに座を占め、兄弟たちは別の町に入った。やってきた人々が「ルーシ」と呼ばれていたので、その土地もルーシと呼ばれるようになった、と年代記は説明する。
その後、リューリクの一族のオレグが南へ下り、882年にドニエプル川のほとりのキーウを奪って、ここを「ルーシの町々の母」と定めた。907年にはコンスタンティノープルへ遠征し、911年に東ローマ帝国と交易の条約を結んだとされる。その条約に名を連ねるルーシの使者たちは、カールやインギャルドといった北欧風の名を持っていた。

年代記の話には、作られた部分が多いとみられている。書かれたのは事件から250年近く後で、リューリクの子孫を名乗る公たちの支配に正統性を与える目的があった。招かれて来たという筋書きも、他の民族の建国伝説によく似ている。
それでも、北欧から人が来ていたことは、ほかの史料でも確かめられる。839年、フランク王国の宮廷に東ローマ皇帝の使節とともに現れた「ロース」と名乗る人々は、調べてみるとスウェーデン人だった、とフランクの年代記は書いている。860年には「ルーシ」の船団がコンスタンティノープルを襲い、町の総主教がその恐怖を説教に残した。922年にヴォルガ川の流域を訪れたアラブの使節イブン・ファドラーンは、ルーシの商人たちの姿と、首長の遺体を船ごと焼く葬儀を詳しく描いている。

彼らを東へ引き寄せたのは、川の道と銀だった。バルト海からラドガ湖を経て、ヴォルガ川を下ればカスピ海とアッバース朝の市場へ、ドニエプル川を下れば黒海とコンスタンティノープルへ出られる。北の森の毛皮や蜜、そして捕らえた人々を売り、イスラーム世界の銀貨を手に入れた。北欧の各地からは、この時代のアラブの銀貨が大量に埋められた状態で見つかっている。ヴォルガ下流のハザールの滅亡で知られるハザールも、この交易の相手だった。
この話をどこまで信じるかで、18世紀から論争が続いてきた。ペテルブルクの学士院に招かれたドイツ人の学者たちが、国の起こりを北欧人に求めたのに対し、ロシアの学者ロモノーソフは激しく反発した。国家を外から来た人々が作ったのか、土地のスラヴ人が作ったのか。議論は民族の誇りと結びつき、ソ連の時代にはスラヴ起源を強調する見方が公の立場になった。

考古学は、どちらの単純な図式も支持しない。ラドガやノヴゴロド近郊の集落からは、北欧の装身具や武器が出る一方、スラヴ人やフィン系の人々の暮らしの跡も重なっている。少数の北欧系の戦士と商人が、土地の人々と交わりながら支配層を作り、数世代のうちに言葉もスラヴ語へ移っていった、と見るのが今の大方の理解である。「ルーシ」という名も、北欧語の「漕ぐ」に由来するという説が有力だが、決着してはいない。
キーウを中心にまとまった国は、のちにウラジーミル1世のもとでキリスト教を受け入れ(キエフ・ルーシの改宗)、東スラヴの世界の起点になった。リューリクの子孫とされる公たちの家系は、16世紀の末までモスクワの君主として続く。いまロシア、ウクライナ、ベラルーシはいずれも、このルーシを自分たちの歴史の始まりとして語っている。