できごと

難民キャンプ

The refugee camp
AD1991年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1991年の版図を描いています(39勢力)。

概要

ソマリアの中央政府が崩れ、国境を越えた人々のために、ケニア北東部のダダーブに仮の居住地が設けられた。想定は九万人、数年である。三十年を超えて存続し、一時は五十万人近くが暮らした。そこで生まれ、そこで育ち、外を知らないまま成人した人がいる。移動の自由は制限され、働くことも難しい。仮設という前提が、恒久の状態を作る。世界の難民の多くが、平均して十年を超えて、こうした場所にいると推計されている。

場所

ダダーブ位置は特定されていない(誤差 ±10km)
0.05°N 40.31°E · ケニア・ガリッサ郡

本文

1991年1月、ソマリアのシアド・バーレ政権が倒れた。後を継ぐ中央政府はできず、国は氏族ごとの武装勢力の争いに分かれた。内戦に旱魃と飢饉が重なり、人々は国境を越えて逃げた。ケニアへ、エチオピアへ、海を越えてイエメンへ。ソマリアに全土を治める政府が無い状態は、その後三十年以上にわたって続くことになる。後にソマリア沖で海賊が横行したのも(ソマリア沖の海賊)、この国の崩壊の延長にある。

同じ1991年、ケニア北東部のダダーブに、逃れてきた人々のための居住地が設けられた。ソマリアとの国境から百キロほど、乾いた半砂漠の土地である。ハガデラ、イフォ、ダガハレーという三つの区域が作られ、のちにさらに区域が加えられた。国連の難民を守る機関(国連難民高等弁務官事務所と難民条約)が運営を担い、想定されていた人数は九万人ほど、期間は数年だった。

2005年、チャドの難民キャンプ
2005年、チャドの難民キャンプWikimedia Commons Mark Knobil from Pittsburgh, usa · CC BY 2.0

だが、キャンプは閉じなかった。1990年代の初めにはすでに十万人を超え、2011年にソマリアがひどい旱魃と飢饉に見舞われると、一日に千人以上が到着する時期が続いた。2012年ごろには登録された人だけで四十五万人を超え、世界最大の難民キャンプと呼ばれた。その後、帰還や移送で減ったものの、2020年代に入っても二十万から三十万を超える人々が暮らしている。そこで生まれ、そこで育ち、外の世界を知らないまま大人になった人が数万人いる。祖父母が逃げてきて、親がキャンプで生まれ、その子もキャンプで生まれる。三代目が、いる。

キャンプには、生きていくための仕組みがひととおりある。世界食糧計画が穀物や豆、油、塩を配る。ただし資金が足りなくなると配給は削られ、2010年代の後半からは何度も減らされて、一人が一日にとれる熱量が国際的な目安を下回った時期もあった。小学校と中学校があり、教員の多くはキャンプの住民自身である。カナダやケニアの大学と結んで、キャンプにいながら学位を取れる遠隔の講座も作られ、数百人が学位を得た。病院と診療所があり、そして市場がある。訪れた人がしばしば驚くのは、キャンプの中に何千もの店が並んでいることだ。携帯電話、送金の窓口、家畜、野菜、衣類。キャンプの経済は年に数千万ドル規模と推計されたこともあり、周辺のケニアの町の暮らしも支えている。

バングラデシュ、世界最大の難民キャンプであるクトゥパロン難民キャンプ、2016年
バングラデシュ、世界最大の難民キャンプであるクトゥパロン難民キャンプ、2016年Wikimedia Commons Maaz Hussain ( VOA ) · Public domain

足りないのは、先に進むための手立てである。ケニアの法律では、難民は決められた場所に住むことになっていて、外へ出るには許可が要り、許可はなかなか出ない。正式に雇われて働くことも、ほとんど認められていない。援助団体の下で働く人もいるが、受け取るのは賃金ではなく「奨励金」で、同じ仕事をするケニア人の同僚の数分の一にとどまる。土地を持つこともできない。

難民の問題には、三つの「恒久的な解決」があるとされる。故国への帰還、受け入れた国への定住、そして第三国への再定住である。だがダダーブの多くの人にとって、どれも来ない。ソマリアは帰れるほど安全にはなっていない。ケニアが市民権を与えるのは、政治的にきわめて難しい。ほかの国が難民を受け入れて定住させる枠は、世界全体で年に十万人前後と、難民の総数の一パーセントにも満たない。難民条約は難民を追い返さないことを国々に約束させたが、どこで、いつまで、どのように暮らすのかについては答えを持っていない。

1920〜25年ごろ、ベイルートの難民キャンプ
1920〜25年ごろ、ベイルートの難民キャンプWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

ケニア政府は、ダダーブを閉じると何度も宣言してきた。2015年に隣町ガリッサの大学がソマリアの武装組織アル・シャバブに襲われ、百四十人を超える人が殺されると、政府は翌年、キャンプがテロの温床になっているとして閉鎖を打ち出した。ケニアの高等裁判所は2017年、閉鎖の決定を違憲として退けた。2021年にも閉鎖の方針が示されたが、期限は先延ばしになった。キャンプが武装組織の拠点になっているという主張には、根拠が弱いと指摘する調査もある。

ダダーブのような状態を、国連難民高等弁務官事務所は「長期化した難民状況」と呼ぶ。同じ国籍の難民が二万五千人以上、五年以上にわたって同じ受け入れ国にいる状態をいう。世界の難民の多くがこの状態にある。避難の期間の平均は十年を超えるとよく言われるが、数え方によって幅がある。二十年を超える例も珍しくない。1948年から続くパレスチナの難民、四十年以上パキスタンやイランに暮らすアフガニスタンの難民、タイ国境のミャンマーの人々のキャンプ。欧州難民危機のようにヨーロッパに人々が押し寄せたときに注目が集まるが、難民の大多数は、故国の隣の貧しい国で長い年月を過ごしている。

1994年のルワンダ虐殺後、東ザイール(現コンゴ民主共和国東部)に設けられたルワンダ難民キャンプ
1994年のルワンダ虐殺後、東ザイール(現コンゴ民主共和国東部)に設けられたルワンダ難民キャンプWikimedia Commons CDC · Public domain

難民キャンプは、仮のものとして作られる。だから頑丈な建物を建てることは認められず、上下水道も本格的には整えられない。一時的なものだから、という理由である。そしてその一時が、三十年になる。仮設であるという前提そのものが、恒久の宙ぶらりんの状態を作り出している。ダダーブは、その矛盾をいちばん大きな規模で示してきた場所である。

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