シラクサの建設
概要
コリントスの人びとがシチリアに植民市を建てた。ギリシア人は200年で地中海と黒海の岸に数百の都市を築き、母市より大きくなる町も出る。
場所
37.08°N 15.29°E · イタリア・シチリア州
本文
紀元前8世紀の半ば、コリントスの人アルキアスに率いられた一団が、船でシチリアの東岸に着いた。トゥキディデスは、隣のナクソスが築かれた翌年のことだと書いており、そこから紀元前734年ごろと計算されている。彼らは海岸に浮かぶ小島オルテュギアに住んでいたシケル人を追い払い、そこに町を作った。島には真水の湧く泉があり、両側に良い港がある。町はやがて橋で結ばれた対岸へ広がった。
同じころ、ギリシア人はあちこちへ船を出していた。最も古い植民市の一つは、紀元前8世紀前半にナポリ湾の島ピテクサイに築かれた交易の拠点である。続いてクマエ、ナクソス、メガラ・ヒュブライア、南イタリアのシュバリスやクロトン。紀元前7世紀にはシチリアのゲラ、黒海の入口のビザンティオン、北アフリカのキュレネ。紀元前600年ごろには、フォカイアの人びとが南フランスにマッサリア、いまのマルセイユを築いた。

出ていく理由は町によって違った。山がちな故郷は耕せる土地が少なく、人が増えれば食べていけない。政争に敗れた者が新天地を求めることもあった。金属や穀物を得る交易の足場も要った。キュレネについてヘロドトスは、日照りに苦しむテラ島の人びとが、デルフォイの神託に従い、くじで選んだ若者を送り出したと伝えている。行き先を決める前に、デルフォイに伺いを立てるのが習わしだった。
植民市は、ギリシア語でアポイキア、「離れた家」と呼ばれた。指導者は母市の炉から火を持って出て、新しい町の炉にともしたと伝えられる。神々の祭りや言葉、文字は母市のものを受け継いだが、政治の上では独立した別の国で、母市の指図は受けなかった。紀元前8世紀から6世紀の間に、地中海と黒海の岸には数百の植民市ができた。プラトンは、ギリシア人は池のまわりの蛙のように海のまわりに住んでいる、と書いている。

シラクサは、その中でも抜きん出た町になった。紀元前5世紀の初め、ゲロンが周辺の町の住民を移り住ませて町を大きくし、紀元前480年にはシチリア北岸のヒメラで、カルタゴの大軍を破った(カルタゴ)。ヘロドトスは、これをギリシア本土のサラミスの海戦と同じ日のことだと伝えている。次の僭主ヒエロンの宮廷には、詩人ピンダロスや悲劇作家アイスキュロスが招かれた。
オルテュギアの泉には、ギリシア本土から海の下を通ってきた水だという神話がついていた。ペロポネソスの川の神アルペイオスに追われたニンフのアレトゥーサが、海の底をくぐってこの島に逃れ、泉になったという。島の高みにはアテナの神殿が建てられた。神殿はのちに教会に変えられ、いまもシラクサの大聖堂の壁には、2500年前のドーリス式の円柱がそのまま埋め込まれて立っている。
紀元前415年、アテナイがシチリアの覇権を狙って大軍を送ってきた(シケリア遠征)。シラクサは2年の包囲に耐え、スパルタの援軍とともに、紀元前413年にアテナイの軍を全滅させた。捕虜たちは町はずれの石切り場に閉じ込められ、多くが死んだ。この敗北は、ペロポネソス戦争でアテナイが負ける大きな理由になる。

その後シラクサは、僭主ディオニュシオス1世のもとでシチリアの大半を支配し、カルタゴと何度も戦った。プラトンは理想の国家を実現しようと、ディオニュシオスの宮廷を訪れ、失望して帰っている。紀元前3世紀には、町に生まれたアルキメデスが王ヒエロン2世に仕えた。
ローマとカルタゴが争うと、シラクサは最後にカルタゴの側についた。紀元前214年からローマ軍に包囲され、アルキメデスの考えた機械が長く敵を寄せつけなかったと伝えられる。だが紀元前212年、町は落ち、アルキメデスはローマの兵士に殺された。建設からおよそ500年、母市コリントスより大きな町に育った植民市は、ローマの属州の一都市になった。
南イタリアとシチリアのギリシア人の町々は「大ギリシア」と呼ばれた。ローマはこの地を通して、ギリシアの文字や神々、劇場や哲学に触れた。いまもシラクサには、岩を削った巨大なギリシア劇場が残り、夏には古代の悲劇が上演されている。