ロアノークの失われた植民地
概要
ローリーの特許で115人が上陸し、ヴァージニア・デアが生まれた。総督ホワイトが補給に帰り、アルマダの戦争で3年戻れなかった。1590年、誰もいなかった。柱に「CROATOAN」。捜索は嵐で中止。何が起きたかは、いまも分からない。イギリスの最初の植民地は、消えた。
場所
35.89°N -75.66°E · アメリカ・ノースカロライナ州
関わった人(1)
ウォルター・ローリーAD1552年–AD1618年10月29日 · 特許本文
1584年、エリザベス女王の寵臣ウォルター・ローリーは、北アメリカに植民地を作る特許を女王から得た。スペインが中南米から銀を運び出しているのを横目に、イングランドもアメリカに足場を持ちたかった。ローリーはまずアマダスとバーロウの二人を偵察に送り、二人はいまのノースカロライナ州の沖に連なる細長い島々の内側で、ロアノーク島を見つけた。土地は「処女王」エリザベス1世にちなんで「ヴァージニア」と名づけられた。二人は先住民のマンテオとワンチェスをイングランドに連れて帰った。
翌1585年、リチャード・グレンヴィルの船団が100人あまりの男たちをロアノーク島に下ろし、ラルフ・レーンが総督として残った。一行には学者のトマス・ハリオットと画家のジョン・ホワイトがいて、土地の植物や先住民の暮らしを記録した。ホワイトの水彩画は、接触の直後のアメリカの人々を描いた貴重な絵として今に残っている。しかし食糧が足りなくなると、植民者は先住民に食べ物を求めて揉め、村を焼き、1586年には首長ウィンギナを殺した。補給は遅れ、通りかかったフランシス・ドレークの船団に乗って、植民者はみなイングランドへ帰ってしまう。直後に着いたグレンヴィルは、島を守るために15人ほどを残していったが、この人々も後に跡形もなく消えた。
1587年、ローリーは今度は家族ぐるみの植民を計画した。総督はジョン・ホワイトで、男女と子ども合わせて115人ほどが船に乗った。行き先は、より良い港のあるチェサピーク湾のはずだったが、水先案内のフェルナンデスは航海を急ぎ、一行を7月にロアノーク島で降ろしてしまった。8月13日、マンテオがキリスト教の洗礼を受け、「ロアノークの領主」とされた。8月18日には、ホワイトの娘エリノアが女の子を産み、ヴァージニア・デアと名づけられた。アメリカで生まれた最初のイングランド人の子である。
物資が足りないことが分かり、植民者たちはホワイトに、イングランドへ戻って補給を頼んでほしいと求めた。ホワイトは8月の終わり、娘と孫を残して島を発った。ところが帰り着いたイングランドは、スペインとの戦争の瀬戸際にあった。1588年、アルマダの海戦に備えて、外洋に出られる船はすべて国に押さえられた。ホワイトは小さな船二隻で出たが、途中で襲われて引き返した。

ホワイトがようやく島に戻れたのは、1590年8月18日、孫の3歳の誕生日のことだった。家々はなく、柵で囲まれた跡だけが残っていた。柵の柱には「CROATOAN」、木には「CRO」と彫られていた。クロアトアンは南の島の名で、マンテオの一族が住んでいた。ホワイトは発つ前、植民者と、移るなら行き先を彫っておくこと、危険が迫っていたらその上に十字を刻むことを約束していた。十字は無かった。ホワイトはクロアトアン島に向かおうとしたが、嵐で錨を失い、船長は島に寄らずに帰国の途についた。ホワイトは二度とアメリカに戻れなかった。ローリーはのちの1602年にも捜索の船を送ったが、手がかりは得られなかった。
植民者たちがどうなったのかは、いまも分かっていない。クロアトアン島の先住民の中に入って暮らしたという説、北のチェサピーク湾の方へ移ったという説、飢えや病気で死んだという説、スペインの攻撃を受けたという説がある。1607年にジェームズタウンの建設で上陸したイングランド人は、ポウハタンの首長が植民者を殺したと話していたと書き残しているが、確かめようがない。20世紀以降は、ホワイトの地図の継ぎ当ての下に隠れた砦の印が2012年に見つかり、内陸のその場所や、旧クロアトアン島(いまのハッテラス島)で、16世紀のイングランドの品を探す発掘が続いている。見つかった品が植民者のものかどうかは、まだ決め手がない。1937年に見つかったヴァージニア・デアの墓碑だとする「デア・ストーン」は、偽物とされている。

イングランドの最初の植民地は、こうして消えた。ノースカロライナでは、ヴァージニア・デアが白い鹿になったという伝説が生まれ、1937年からはロアノーク島で野外劇『失われた植民地』が毎年夏に上演されている。CROATOANの7文字は、アメリカ合衆国の始まりの前に置かれた、最初の謎として語り継がれている。