西ゴートのローマ略奪

概要
800年ぶりに市が落ちた。滅亡の66年前だが、同時代の人はここで世界が終わったように書いている。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
アラリックAD370年頃–AD410年 · 王本文
410年8月24日の夜、ローマの北東のサラリア門が開き、西ゴートの王アラリックの軍が市内に入った。門を内側から開けた者がいたとも伝えられる。紀元前390年ごろのガリア人による略奪(ケルト人のローマ略奪)から、およそ800年。外敵がローマの城壁の内側に入ったのは、それ以来のことだった。
ゴート人は、もとは黒海の北に住んでいたゲルマン系の人々である。4世紀の後半、東から来たフン人に押されて(フン人の西進とゲルマンの移動)、376年、その一派がドナウ川を渡ってローマ帝国の領内に逃げ込んだ。ローマの役人たちが彼らを食い物にしたため反乱となり、378年にはハドリアノポリスの戦い(ハドリアノポリスの戦い)で皇帝ウァレンスを戦死させた。その後、皇帝テオドシウスは、彼らを帝国の領内に住まわせ、同盟者として兵を出させる取り決めを結んだ。

395年にテオドシウスが亡くなり、帝国は二人の息子に東西に分けて継がれた。この年ごろ、ゴート人をまとめる王となったのがアラリックである。アラリックは帝国を滅ぼそうとしたのではなかった。彼が求めたのは、自分の民が落ち着いて暮らせる土地と、食料と、帝国の軍の高い地位だった。それを得るために、東と西の宮廷を相手に、ある時は戦い、ある時は仕えた。
西の帝国で実権を握っていたのは、ヴァンダル人の父を持つ将軍スティリコだった。スティリコは401年からのアラリックのイタリア侵入を食い止め、その一方でアラリックを味方に引き入れようとしていた。だが408年、スティリコは若い皇帝ホノリウスの命令で処刑される。その後、イタリアにいたゲルマン系の兵の家族がローマ人に殺され、怒った兵たちが大勢アラリックのもとに走った。

408年の秋、アラリックはローマを包囲した。市内は飢えに苦しみ、元老院は大量の金と銀、絹の衣、胡椒を差し出して包囲を解かせた。皇帝ホノリウスは、沼地に守られた北イタリアのラヴェンナに宮廷を置いて動かず、アラリックの求める土地と地位を認めなかった。409年、アラリックは再びローマを囲み、元老院の議員の一人を自分の側の皇帝に立てたが、交渉はまとまらなかった。そして410年、三度目の包囲で、ついに市内に入った。
略奪は3日間続いた。家々が荒らされ、多くの人が殺され、あるいは捕らえられた。皇帝の妹ガッラ・プラキディアも捕虜となった。ただしアラリックの民はキリスト教徒で、アラリックは使徒ペテロとパウロの聖堂を襲わないよう命じ、そこに逃げ込んだ者は助けられたと、同時代のキリスト教徒の著作家たちは書いている。
略奪の規模は、後の455年にヴァンダル人が2週間にわたって行ったもの(ヴァンダルのローマ略奪)のほうが大きかった。皇帝はもはやローマに住んでおらず、政治の中心でもなかった。それでも、この出来事が与えた衝撃は大きかった。ローマは、永遠の都と信じられていたからである。

遠くベツレヘムで聖書の翻訳に打ち込んでいたヒエロニムスは、知らせを聞いて、全世界を征服した都市が征服された、と嘆いた。ラヴェンナの宮廷では、皇帝ホノリウスが、ローマが滅びたと聞かされて、自分の飼っていた「ローマ」という名の鶏が死んだのかと驚いた、という話も伝わっている。後の時代の歴史家が書いた逸話で、作り話とされるが、宮廷と都の隔たりをよく表している。
衝撃は、非難を生んだ。ローマが古くからの神々を捨ててキリスト教を国の宗教にしたから、神々に見放されたのだ、と異教徒たちは言った。北アフリカの司教アウグスティヌスは、これに答えるために大著『神の国』(『神の国』)を書きはじめる。地上の国はどれほど栄えても、いずれ過ぎ去る。人が本当に属すべきは神の国である、とアウグスティヌスは説いた。

アラリックは略奪の後、南イタリアへ向かい、アフリカへ渡ろうとしたが、船が嵐で失われた。その年のうちに病で亡くなり、川の流れを一時せき止めて川底に葬られた、と後の歴史家は伝えている。西ゴートの人々はその後ガリアの南西部へ移り、418年、帝国の同盟者としてそこに定住を認められた。やがてイベリア半島に王国を築く(西ゴート王国)。
西ローマ帝国が最後の皇帝を失うのは、この66年後の476年である(西ローマ帝国の滅亡)。だが同時代の人々の感覚では、410年の夏に、何かがすでに終わっていた。