テオドリック大王
概要
イタリアを東ゴートの王として33年治めた。ローマの制度をそのまま使い、統治は安定していた。
所属
東ゴート王国関わったできごと(2)
テオドリックのイタリア王国AD493年 · 当人テオドリックのイタリア統治AD493年 · 王本文
テオドリックは454年ごろ、ドナウ川中流のパンノニア(いまのハンガリー西部あたり)で、東ゴート人の名門アマル家の王子として生まれた。父ティウディミールはゴート人の一派を率いる王で、母エレレウヴァはカトリックの信者だったと伝わる。ゴート人はこのころ、東ローマ帝国と同盟を結んだり戦ったりしながら、帝国の辺境に住んでいた。

7歳か8歳のころ、テオドリックは和平の保証の人質として、東ローマの都コンスタンティノープルに送られた。それから10年ほど、皇帝の宮廷で育った。ゴート人の王子は、ローマの宮廷の作法と政治を間近に見て、帝国がどのように動いているかを知った。後世、テオドリックは文字が書けず、署名には穴を開けた金の板を使ったという話が伝わるが、これは疑わしいとされている。
18歳ごろ故郷に戻り、父の死後、王となった。その後の十数年、テオドリックの東ゴート人はバルカン半島を移動しながら、皇帝ゼノンと同盟しては背き、また手を結んだ。484年には東ローマの執政官にもなっている。皇帝にとって、帝国の中に住みつく大きな武装集団は扱いにくい存在だった。

そのころイタリアでは、476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが西ローマの最後の皇帝を退け、自ら王として治めていた(西ローマ帝国の滅亡)。488年、ゼノンはテオドリックに、イタリアへ行ってオドアケルを倒し、皇帝に代わって治めよと命じた。厄介な同盟者を遠くへ送り出す一石二鳥の策でもあった。テオドリックは、兵士だけでなく女性や子どもを含む民をまるごと率いて、アルプスの東の峠を越えた。
489年から、イタリア北部で戦いが続いた。オドアケルは敗れて都ラヴェンナに籠もり、湿地に守られた町は3年近く持ちこたえた。493年2月、二人はイタリアを共に治めるという取り決めを結ぶ。だがその10日ほど後、テオドリックは宴の席で、自らの剣でオドアケルを斬り殺した。斬ったあとに、この男には骨が無かったのかと言ったと伝えられる。オドアケルの兵や家族も殺された。

こうして始まったイタリアの統治(テオドリックのイタリア王国)は、33年に及んだ。統治のやり方が特徴的である。テオドリックはローマの制度をそのまま使った。ローマの元老院は開かれ続け、執政官が毎年任命され、ローマ人の官僚が行政を担い、ローマ人にはローマ法が適用された。軍事はゴート人が受け持つ。教養あるローマ人の貴族カッシオドルスが王の秘書となり、王の名で出した文書には、法を守り、互いに礼をもって共に暮らす「キウィリタス」(市民の礼節)という理念が繰り返し説かれている。
宗教は違った。ゴート人はキリストを神より一段低いものとみるアリウス派を信じ、ローマ人の多くはカトリックだった。テオドリックはどちらの信仰も守り、ローマ教皇の選挙の争いを裁くことさえあった。ラヴェンナには、アリウス派の洗礼堂や、のちにサンタポリナーレ・ヌオーヴォと呼ばれる聖堂を建て、モザイクで飾った。500年にはローマを訪れて元老院で演説し、市民に穀物を配り、城壁や水道の修理を命じた。

外交では、婚姻で西ヨーロッパの諸王を結びつけた。自身はフランクの王クローヴィス1世の妹を妃とし、娘たちを西ゴートとブルグントの王に、妹をヴァンダルの王に嫁がせた。507年にクローヴィスが西ゴートを破ると、テオドリックは西ゴートの幼い王の後見として、その王国も事実上治めた。西ローマ帝国のあとに並び立った諸王国の中で、彼は長老のような立場にあった。
晩年、空気が変わった。東ローマ皇帝ユスティヌス1世がアリウス派への締めつけを始めると、テオドリックはローマ人の貴族たちが東と通じているのではないかと疑い始めた。523年、元老院議員の一人が東の宮廷と密かに文通した罪に問われ、宮廷の長官だった哲学者ボエティウスがそれをかばった。ボエティウスは自分も反逆の罪に問われ、524年ごろ処刑された。獄中で書いた『哲学の慰め』(ボエティウス『哲学の慰め』)は、中世を通じて最もよく読まれた書物の一つになる。その義父で元老院の長老シンマクスも殺された。東へ使いさせた教皇ヨハネス1世は、戻ると捕らえられ、獄中で死んだ。

526年8月30日、テオドリックはラヴェンナで死んだ。70歳を超えていた。食卓に出た大きな魚の頭が、殺したシンマクスの顔に見えて恐れおののき、それがもとで病に倒れた、とプロコピオスは書いている。遺体は、一枚岩の巨大な石を屋根にのせた霊廟に納められ、その建物はいまもラヴェンナに残る。
王位は幼い孫が継ぎ、娘のアマラスンタが後見した。9年後、東ローマのユスティニアヌス1世はイタリアの奪回の軍を送り(ユスティニアヌスの再征服)、20年近い戦争の末に東ゴートの王国は滅んだ。テオドリックの名は、ドイツの英雄叙事詩の中で「ベルンのディートリヒ」として生き続けた。