テオドリックのイタリア王国
概要
ゴート人の王がローマの制度と役人をそのまま使って治めた。西ローマが「滅んだ」あとも日常は続いている。
場所
44.42°N 12.20°E · イタリア・エミリア=ロマーニャ州
関わった人(1)
テオドリック大王AD454年頃–AD526年8月30日 · 当人本文
476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが西ローマの最後の皇帝を退位させ、帝位の印をコンスタンティノープルへ送り返した(西ローマ帝国の滅亡)。教科書ではここで西ローマ帝国が滅んだことになっているが、イタリアの暮らしが一夜で変わったわけではない。元老院は残り、役所も法も動いていた。オドアケルは東の皇帝の代理のような顔をしてイタリアを治めた。東ローマ皇帝ゼノンにとって、それは目障りだった。
テオドリック大王は、ドナウ川流域に住む東ゴート人の王族に生まれた。子どものころ、和平の人質としてコンスタンティノープルに送られ、10年ほどをそこで過ごしている。ローマの宮廷と軍のやり方を、内側から見て育った。王になってからはバルカン半島で東ローマと戦ったり手を結んだりを繰り返し、皇帝にとっては扱いにくい存在だった。488年、ゼノンはテオドリックに、イタリアへ行ってオドアケルを倒せと命じた。厄介者どうしをぶつける策である。

テオドリックは一族と兵、その家族を引き連れてアルプスを越えた。総勢は10万人前後とも言われるが、確かな数は分からない。489年から490年にかけて北イタリアで続けて勝ち、オドアケルをラヴェンナに追い込んだ。湿地に守られたラヴェンナは落ちず、包囲は3年に及んだ。493年2月、ラヴェンナの司教の仲立ちで、二人でイタリアを共同で治める約束ができた。ところが3月、テオドリックは祝宴の席でオドアケルを自らの剣で斬り殺し、その一族と兵も殺した。
こうして始まったテオドリックの統治は、526年に死ぬまで30年あまり続き、イタリアに久しぶりの安定をもたらした。やり方の特徴は、ローマの仕組みに手をつけなかったことにある。元老院は開かれ、毎年執政官が任命され、ローマ人にはローマ法が適用された。行政を担ったのはローマの貴族たちで、軍はゴート人が受け持った。ゴート人は土地の一部を割り当てられて住みついたが、ローマ人と結婚することは控えられた。テオドリック自身は皇帝を名乗らず「王」とだけ称し、東の皇帝の権威を形のうえでは認めていた。

宗教では両者は分かれていた。ゴート人はキリストを父なる神より下に置くアリウス派を信じ、ローマ人のカトリックからは異端とされていた。テオドリックは都のラヴェンナにアリウス派の教会や洗礼堂を建てる一方で、カトリックの教会にも手を出さず、ユダヤ人の会堂が焼き討ちに遭ったときは、町に再建の費用を出させている。自分の墓として、一枚岩の巨大な屋根をのせた霊廟も建てた。これらの建物はいまもラヴェンナに残る。
外交では婚姻を使った。自身はフランク王クローヴィスの妹を妻とし、娘や妹を西ゴート、ブルグント、ヴァンダルの王たちに嫁がせた。かつての西ローマの領域に並んだゲルマン人の王国の、まとめ役になろうとしたのである。

この時代を記録した人として、ローマ貴族のカッシオドルスがいる。テオドリックの秘書役として王の名で書いた公文書を、のちに『雑録』にまとめた。洪水への対処、水道の修理、役人への叱責など、ローマの行政がまだ動いていた様子が読み取れる。哲学者ボエティウスも高官として仕えた。
晩年、関係が冷えた。東の皇帝がアリウス派を締め付け始め、テオドリックは元老院の一部が東と通じているのではないかと疑った。524年ごろ、ボエティウスを反逆の罪で処刑し、その義父シュンマクスも殺した。抗議のためにコンスタンティノープルへ送られた教皇ヨハネス1世は、戻ってきたあと獄中で死んだ。ボエティウスが処刑を待つあいだに書いた『哲学の慰め』は、中世を通じて最もよく読まれた本の一つになる。

テオドリックが死ぬと、王国は揺らいだ。孫の幼い王の後見をした娘アマラスンタが殺されたことを口実に、535年、ユスティニアヌス1世が軍を送った(ユスティニアヌスの再征服)。ベリサリウスがローマを取り戻し、ゴート人はトティラのもとで盛り返してローマを奪い返す。戦争は20年近く続き、552年から553年にかけてゴート人の最後の王たちが敗れて、王国は消えた。長い戦いと疫病(ユスティニアヌスの疫病)でイタリアは荒れ果て、その15年後にはランゴバルド人が入ってくる(ランゴバルドのイタリア侵入)。テオドリックの時代のイタリアのほうが、「取り戻された」あとより穏やかだったと言われるのはそのためである。ドイツの英雄叙事詩では、テオドリックは「ベルンのディートリヒ」として語り継がれた。