エリス島の移民検査場
概要
連邦政府が移民の審査を州から引き取り、ニューヨーク湾の島に施設を置いた。六十二年間で約1,200万人が通った。一等と二等の船客は船上で済ませ、三等船客だけが上陸させられる。医師が階段を上る様子を見て、息切れや跛行を探した。目を金具でめくって、失明に至るトラコーマを見る。問診が二十九問。返されたのは全体の約2%だが、その多くが病と、公費に頼るおそれである。今日そこは、移民の記念館になっている。
場所
40.70°N -74.04°E · アメリカ・ニューヨーク州/ニュージャージー州
本文
19世紀、ニューヨークに着いた移民を調べるのは州の仕事だった。マンハッタンの南端、古い砦を改装したキャッスル・ガーデンの施設が1855年から1890年まで使われ、およそ800万人がそこを通った。1840年代のアイルランドのジャガイモ飢饉を逃れたアイルランドの人々の多くも、ここから新しい国に入った。
だが、州は移民一人ひとりに税をかけて費用をまかなっており、1875年に最高裁は、移民の受け入れを規制するのは州ではなく連邦の権限だとする判断を示した。連邦議会は1882年に中国人排斥法を定め、特定の人々の入国を拒むことを始めていた。1891年には連邦の移民局が置かれ、審査は国の手に移る。その窓口として選ばれたのが、自由の女神像の立つ島のすぐ北にある小島、エリス島だった。

施設は1892年1月1日に開かれた。最初に審査を受けたのは、アイルランドから二人の弟を連れてやって来た少女アニー・ムーアで、記念に10ドルの金貨を贈られた。彼女はのちに西部へ渡ったと長く語られてきたが、2006年に系譜の研究者が調べ直し、実際にはニューヨークで結婚して多くの子を産み、1924年にこの町で亡くなっていたことを突き止めた。最初の建物は木造で、1897年の火事で焼け、多くの記録も失われた。1900年、煉瓦と石の建物が再建された。
審査の手順は、船の等級で最初から分けられていた。一等と二等の客は船の上で簡単な検査を受けるだけで、そのまま港に上陸できた。高い運賃を払える者なら公の負担にはなるまい、という理屈である。艀に乗せられて島へ運ばれたのは、船底近くの大部屋に詰め込まれてきた三等船客だけだった。エリス島は、貧しい人々をふるいにかけるための施設だったのである。

島に着いた移民は荷物を抱えて階段を上り、2階の大広間へ向かう。その階段の上で、医師たちが一人ひとりを見ていた。息を切らしていないか、足を引きずっていないか、顔色はどうか、荷物をどう持っているか。数秒で見極めるこの診察は「6秒の検査」とも呼ばれた。気になった者がいれば、上着にチョークで英字の記号を書く。足の不自由、心臓、目、そして心の病の疑いなど、記号ごとに意味が決まっていて、印を付けられた者は別室に回され、詳しく調べられた。
最も恐れられたのが目の検査である。医師は靴のボタンを留めるための鉤形の金具で瞼をめくり、トラコーマの兆しを探した。トラコーマは微生物による慢性の結膜炎で、放っておくと瞼が内側に巻き込み、睫毛が角膜を傷つけて失明に至る。しかもうつりやすい。トラコーマは送り返される医学上の理由として最も多いものの一つだった。器具を消毒しないまま次の人に使ったという記録もあり、検査そのものが病をうつした可能性もある。

医師の目を通り抜けると、大広間で審査官の問いに答える。名前、年齢、職業、行き先、いくら金を持っているか、誰が呼び寄せたか。無政府主義者ではないか、一夫多妻を信じていないか、という問いも並んだ。問いは当初29あり、答えは船会社が乗船の前に作った乗客名簿と突き合わされた。中でも危ないのが、すでに仕事の契約を結んでいるか、という問いだった。「はい」と答えると、1885年の契約労働者法に触れるとして入国を拒まれることがあった。安い労働者をまとめて輸入するのを防ぐための法で、仕事が決まっていることが、かえって不利になったのである。
1892年から1954年までの62年間に、エリス島を通った人はおよそ1200万人にのぼる。最も多かったのは1907年で、1年に100万人ほど、1日で1万人を超えた日もあった。入国を拒まれて送り返されたのは全体の2パーセントほどで、その理由で多かったのは病気と、「公の負担になるおそれ」だった。金を持っていない、身寄りがない、働けそうにない、という判断は審査官の裁量に任されていた。

2パーセントといっても、数にすれば20万人を超える。家族が引き裂かれることもあった。子どもだけが病気で送り返されると、親のどちらかが付き添って船に戻らなければならない。島が「涙の島」と呼ばれたのはそのためである。それでも、98パーセントの人は通った。多くの人は数時間で手続きを終え、フェリーでマンハッタンやニュージャージーへ渡っていった。恐ろしい場所ではあったが、たいていの人にとっては通り抜けられる門だった、というのが現在の理解である。
門を狭めたのは、施設ではなく法律だった。1924年の移民法は、出身国ごとに受け入れる人数の枠を設けた。その基準は1890年の国勢調査に置かれた。1890年が選ばれたのは、それより後に大勢やって来た南欧や東欧の人々、イタリア人やポーランド人、ユダヤ人を減らすためである。アジアからの移民は、事実上すべて閉め出された。人種と民族による選別を、法がはっきりと定めたのである。
同じ頃から、審査は出発する国のアメリカ領事館で、査証を出すときに行われるようになった。海を渡ってから島で振り分ける必要は薄れ、エリス島はやがて、入国を拒まれた人や戦時中に敵国の出身として拘束された人を収容する場所になっていく。1954年11月12日、施設は閉じられた。最後に島を出たのはノルウェーの船員だったとされる。
国別の割り当ては、1965年の移民法(出身国の割り当てをやめる移民法)でようやく廃止された。荒れ果てていた島の建物は修復され、1990年に移民博物館として開かれた。いまのアメリカ人のおよそ4割は、エリス島を通った人の子孫だと推定されている。大広間の階段を上った人々の多くは、自分が医師に見られていることを知っていた。その数秒を越えた人々の子や孫が、20世紀のアメリカをつくったのである。