アングロ・サクソンのブリテン移住
概要
ローマ軍が去った島に、北海の対岸から人が渡ってきた。英語はこのとき島に入る。
場所
52.50°N -1.50°E · イギリス
本文
ブリテン島の南半分は、紀元43年のクラウディウスのブリタニア征服から350年以上、ローマ帝国の属州ブリタニアだった。北の境にはハドリアヌスの長城が築かれ、町には浴場と広場があり、田園には別荘が並んだ。ところが4世紀の末から、帝国の西半分は内乱と外敵に追われ、ブリタニアの守備隊は大陸の争いのために引き抜かれていった。410年ごろには、皇帝ホノリウスがブリタニアの諸都市に、自分の身は自分で守れと書き送ったと伝えられる。ローマの支配は、こうして静かに終わった。
島に残されたブリトン人の社会は、北のピクト人や西のアイルランドからの襲撃にさらされた。そのころ、北海の向こうからも人が渡ってくるようになる。いまのデンマーク南部からドイツ北部、オランダの海岸にかけて暮らしていた、ゲルマン系の言葉を話す人びとである。8世紀の修道士ベーダは、その人びとをアングル人、サクソン人、ジュート人の三つに分けて説明している(ベーダ『イングランド教会史』)。

ベーダの語る筋書きはこうだ。449年ごろ、ブリトン人の王ヴォーティガンが、北からの敵と戦わせるために、ヘンギストとホルサという兄弟の率いるサクソン人の傭兵を招いた。ところが傭兵たちは故郷から仲間を呼び寄せ、やがて雇い主に背いて土地を奪った、と。ただしこの話は、出来事から300年近く後に書かれたもので、兄弟の名も含めて伝説の色が濃い。
同時代に近い記録は、6世紀にブリトン人の修道士ギルダスが書いた一冊くらいしかない。これは歴史書というより、ブリトン人の王や聖職者の罪を責める説教で、侵略者は神が下した罰として描かれている。ギルダスは、ブリトン人がやがて反撃に転じ、バドン山という場所で大勝したことも記す。のちのアーサー王伝説は、この反撃の時代に結びつけられて生まれたものだが(アーサー王)、ギルダスの本にアーサーの名は出てこない。

文字の記録が乏しいぶん、手がかりは地面の下にある。5世紀のイングランド東部では、大陸北部とよく似た形の骨壺に遺灰を納める墓地や、地面を掘り下げた小屋の跡が現れる。ブローチなどの装身具も、北海の対岸のものとそっくりになっていく。かつては、これを大量の移住による住民の入れ替わりとみる説と、少数の支配層が来て在来の人びとが新しい文化をまねたとみる説が、激しく対立していた。
近年の古代人の遺伝子の研究は、この議論に新しい材料を加えた。2022年に発表された大規模な分析では、中世初めのイングランド東部に葬られた人びとの遺伝的な祖先の大半が、北海の対岸の人びとに由来することが示された。男性だけでなく女性も多く渡ってきており、家族ぐるみの移住だったことがうかがえる。一方で、在来のブリトン人の系統も消えておらず、同じ墓地に両方の系統の人が葬られ、混じり合っていた。移住の割合は地域によって大きく異なり、西へ行くほど低くなる。

はっきりしているのは、言葉が入れ替わったことである。イングランドの大部分で、ブリトン人のケルト系の言葉はほとんど痕跡を残さずに消え、渡ってきた人びとのゲルマン系の言葉が取って代わった。英語の古い形、古英語である。日常の基本的な言葉、たとえば水、家、日、愛するといった語の多くは、この時代にまでさかのぼる。ケルト系の言葉は、西のウェールズやコーンウォール、北のスコットランドに追いやられ、海を渡ってフランスのブルターニュへ移った人びともいた。ブルターニュの名は、ブリトン人から来ている。
6世紀から7世紀にかけて、島の東と南には、ケント、ウェセックス、マーシア、ノーサンブリアなど、いくつもの王国が並び立った。597年にはローマから宣教師が来てケントの王を改宗させ(アウグスティヌスのケント布教)、異教の神々を信じていた王国は次々にキリスト教を受け入れていく。のちにアングル人の名から「イングランド」という国の名が生まれ、9世紀にはヴァイキングと戦うアルフレッド大王のもとで、一つの国としてのまとまりが育っていった。いまの英語と、イングランドという国の起点は、ローマが去った後のこの混乱の2世紀にある。