ジェームズタウンの建設
概要
ヴァージニア会社の104人が沼地の半島に砦を建てた。金を探して、畑を作らず、最初の夏から秋で半分が死んだ。1609年の冬は「飢餓の時」、500人が60人に。人を食べた。ポカホンタス、ジョン・ロルフ、タバコ。1619年、最初のアフリカ人。イギリスの北米で、最初に残った植民地。
場所
37.21°N -76.78°E · アメリカ・ヴァージニア州
本文
イングランドは北米への植民で、スペインに大きく遅れていた。エリザベス1世の時代に試みたロアノークの失われた植民地は、入植者ごと消えてしまった。ジェームズ1世の代になった1606年、王はロンドンとプリマスの商人たちに特許状を与え、北米の東海岸に植民地を作る権利を認めた。これがヴァージニア会社である。ヴァージニアという名は、生涯結婚しなかったエリザベスにちなむ。出資者たちが期待したのは、スペインがメキシコやペルーで見つけたような金銀、アジアへ抜ける水路、そして木材やぶどう酒など本国で高く売れる産物だった。
1606年12月、スーザン・コンスタント、ゴッドスピード、ディスカヴァリーの3隻がロンドンを出た。入植者はおよそ105人で、ほかに船乗りが乗っていた。大西洋を渡って1607年4月の末にチェサピーク湾の入口に着き、湾に注ぐ川を王の名にちなんでジェームズ川と名づけて遡った。5月14日、河口から60マイルほど上流の半島に上陸した。スペインの船から見えにくく、守りやすいという理由で選んだ場所だった。だが半島は沼に囲まれ、川の水は海水が混じって飲むのに向かず、夏には蚊が湧いた。

入植者たちは三角形の木の砦を築いた。仲間の半分ほどは「紳士」と呼ばれる身分の者で、畑仕事や大工仕事に慣れていなかった。彼らは金を探し、川の上流に航路を探したが、食べ物を作る準備は後回しにされた。夏の終わりから、赤痢や腸チフス、塩分の多い水による病、そして飢えで人が倒れはじめ、9月までにほぼ半数が死んだ。翌年の初めに補給船が着いたとき、生きていたのは40人足らずだったとされる。
このあたり一帯は、ポウハタンと呼ばれる首長が30前後の部族をまとめて治める土地だった。入植者は彼らからトウモロコシを買い、ときには奪って生き延びた。1607年の冬、探検に出た軍人のジョン・スミスが捕らえられ、ポウハタンのもとへ連れて行かれた。スミスはのちに、自分が殺されかけたとき、首長の娘ポカホンタスが身を投げ出して命を救ったと書いた。ただしこの話が出てくるのは1624年の著書で、1608年に彼が書いた報告には見えない。当時ポカホンタスは10歳か11歳ほどで、話の真偽はいまも議論がある。

スミスは1608年に植民地の指導者になると、働かない者には食べ物を与えないと告げて畑仕事を強いた。この規律でしばらくは持ちこたえたが、1609年の秋、彼は火薬の事故で大けがを負い、イングランドへ帰った。同じ年、500人ほどを乗せた補給の船団が着いたものの、指導者たちを乗せた旗艦はバミューダで難破していた。この難破はシェイクスピアの『テンペスト』の素材の一つになったとされる。
1609年から翌年にかけての冬は、のちに「飢餓の時」と呼ばれた。ポウハタンの人々は砦を囲み、外へ出る者を殺した。入植者たちは馬を食べ、犬や猫やネズミを食べ、靴の革を煮て食べ、ついには死体を掘り返して食べた。妻を殺して塩漬けにした男が処刑されたという記録も残る。2012年には砦の跡から14歳ほどの少女の頭骨が見つかり、刃物で肉を削いだ跡があった。冬のはじめに500人ほどいたとされる入植者は、春には60人ほどになっていた。

1610年5月、バミューダで船を作り直した指導者たちがようやく着いた。彼らは砦を見て、ここを捨てると決め、生き残りを船に乗せて川を下りはじめた。そこへ、新しい総督デ・ラ・ウォー卿の船団が人と食糧を積んで川を上ってきた。一行は砦へ引き返した。植民地が消えるまで、文字どおりあと一歩のところだった。
植民地を救ったのは、金ではなくタバコだった。バミューダの難破から生き延びた入植者の一人ジョン・ロルフが、1612年ごろ、西インド諸島で栽培されていた甘いタバコの種を手に入れて植えた。地元のタバコより口当たりがよく、ロンドンで高く売れた(タバコの伝播)。タバコには広い土地と多くの働き手が要る。植民地は川沿いに農園を広げ、ポウハタンの土地を削っていった。1613年、人質として捕らえられたポカホンタスはキリスト教に改宗し、翌年ロルフと結婚した。1616年に夫とロンドンへ渡って社交界の注目を集めたが、翌1617年、帰りの船に乗る直前にテムズ川沿いのグレーヴゼンドで病死した。
1619年は二つの意味で記憶される年になった。7月、植民地の住民の代表が集まる議会が初めて開かれた。北米で最初の代議制の議会である。そして8月、ポルトガルの奴隷船から奪われたアンゴラの人々を乗せた私掠船が近くの岬に着き、「20人と少し」のアフリカ人が食糧と引き換えに売られた(大西洋奴隷貿易)。彼らが奴隷として扱われたのか、年限つきの奉公人として扱われたのかは、当時の法がまだ定まっていなかったこともあって、はっきりしない。ヴァージニアで奴隷の身分が法で固まるのは、17世紀の後半のことである。

ポウハタンの側は、入植地の膨張を黙って見てはいなかった。1622年3月、1618年にポウハタンが死んだのち実権を握った弟のオペチャンカノウが各地の農園をいっせいに襲い、347人前後の入植者が殺された。会社の経営は行き詰まり、1624年に特許状を取り上げられて、ヴァージニアは王が直接治める植民地になった。町はその後も首府だったが、1676年の反乱で焼かれ、1698年に議事堂が焼けると、翌年、首府は内陸のウィリアムズバーグへ移った。ジェームズタウンは畑に戻り、砦は川に削られて沈んだと長く考えられていた。
1994年、考古学者ウィリアム・ケルソーが発掘を始め、砦の跡がほとんど川に呑まれずに残っていることを突き止めた。井戸やごみ穴から、入植者の暮らしと飢えの跡が次々に出てきた。アメリカの建国の物語は、信仰の自由を求めた人々が1620年に着いたメイフラワー号から語られることが多い。だがそれより13年早く、金を求め、飢え、タバコで立ち直り、アフリカ人を買った植民地があった。イギリスが北米に作った植民地のうち、最初に生き残ったのはこちらである。