ダストボウル
概要
南部大平原は、もともと丈の深い草の草原である。根が土を掴んでいる。第一次大戦の小麦の高値と、トラクターの普及で、その草地が一斉に耕された。1930年代、旱魃が来た。裸の土が、風に飛んだ。1935年4月14日の黒い日曜日、高さ数百メートルの砂の壁が来て、昼が夜になった。塵はシカゴを越えてワシントンまで届いた。数十万人が土地を捨てた。以後、土壌保全局が作られ、等高線耕作と防風林が推奨された。土は、資源であり、失えば戻らない。
場所
36.70°N -101.50°E · アメリカ・オクラホマ州パンハンドル
本文
アメリカの南部大平原は、テキサス、オクラホマ、カンザス、コロラド、ニューメキシコの五つの州が接するあたりに広がる、平らで乾いた土地である。もともとは一面の草原だった。生えていたのはバッファローグラスやグラマグラスといった丈の低い草で、地上に見える部分は小さいが、根は地中深くまで密に張り、土をしっかりとつかんでいた。年に降る雨は400から500ミリほどしかなく、しかも年ごとの差が大きい。数年おきに日照りが来る土地である。
この草原を、人は長く耕さずに使ってきた。コマンチやカイオワ、シャイアンといった先住民は、バイソンの群れを追って暮らした。19世紀の後半にバイソンが狩り尽くされると(アメリカバイソンの激減)、その跡は牛の放牧地になった。どちらも、草を剥がすことはなかった。

それが変わったのは、国が土地を配り始めてからである。1862年のホームステッド法は、西部の土地に住み着いて耕した者に、その土地を無償で与えると定めた。1909年には、雨の少ないこの地方でも一人により広い土地が与えられるよう法が改められた。鉄道会社や土地の売り手は、「雨は鋤のあとについて来る」という言葉を広めた。土を耕せば水分が立ちのぼり、雨が増えるというのである。根拠はなかったが、入植が進んだ時期はたまたま雨の多い年が続き、多くの人がそれを信じた。
拍車をかけたのが第一次世界大戦だった。ヨーロッパの畑が戦場になり、小麦の値段が跳ね上がった。アメリカ政府は増産を呼びかけ、小麦が戦争に勝つと宣伝した。そして決定的だったのがトラクターである。馬と鋤なら何年もかかる広さを、トラクターと円盤の鋤を使えば、一人で一日に数十エーカーも耕せた。戦後も小麦の値段が下がると、農家は量で埋め合わせようとさらに耕した。1920年代の後半には、何百万エーカーもの草地が、ほんの数年のうちに一斉に剥がされた。後に「大耕起」と呼ばれる出来事である。

1930年代の初め、日照りが来た。この土地では繰り返し起きてきたことだった。しかし今度は、土をつかむ草の根がもうなかった。同じころ、世界恐慌で小麦の値段は暴落し、農家は畑を手入れする金も失っていた。乾ききった裸の畑の土は、風に吹かれて舞い上がった。土壌保全の当局の記録では、大きな砂嵐は1932年に14回、1933年に38回、1934年に22回、1935年に40回を数え、その後も年に数十回続いた。
1935年4月14日は、晴れた暖かい日曜日だった。何週間も砂嵐に苦しめられていた人々は、久しぶりに外に出て、洗濯物を干し、教会へ行き、子どもたちは遊んでいた。午後、北の地平線に黒い壁が現れた。高さは数百メートル、幅は見渡すかぎり。北の大平原で巻き上げられた土が、寒冷前線に押されて南へ流れてきたのである。それは雲ではなく壁だった、と生き延びた人々は語っている。壁が来ると、昼は夜になった。顔の前にかざした自分の手も見えない暗さが続き、窓のすきまから土が吹き込んだ。人々は濡れた布で口を覆ったが、それでも土は入ってきた。この日は「黒い日曜日」と呼ばれる。その直後、通信社の記者ロバート・ガイガーが、この一帯を「塵の椀」と書いた。ダストボウルという名はここから定着した。

土は遠くまで飛んだ。前年の1934年5月の大きな嵐では、巻き上げられた土が東へ流れ、シカゴに大量に降り積もり、さらにニューヨークやワシントンの空までかすませた。大西洋の沖を行く船の甲板にも、塵が積もったと報告されている。1935年の春、ワシントンの連邦議会で土壌の侵食について証言していた専門家ヒュー・ハモンド・ベネットは、平原から飛んできた土で空が暗くなると、窓の外を指して、あれが私の話していたものだと言った、と伝えられる。細部には脚色があるとされるが、その春に首都で塵が観測されたことは記録に残っている。まもなく、土を守るための法律が成立した。
人々の暮らしは打ちのめされた。肺に土が入る「塵の肺炎」で、とくに子どもと老人が命を落とした。正確な数は分からない。乾いた土がこすれ合って強い静電気が起き、握手をすると火花が散り、車のエンジンが止まった。人々は静電気を逃がすため、車の後ろに鎖を引きずって走った。家畜も砂を吸い込んで倒れ、畑の作物は砂に埋もれた。畑からは、何億トンもの表土が失われたと推計されている。数センチの表土ができるのには、数百年かかる。

多くの人が土地を捨てた。1930年代に大平原の州を離れた人は数百万人にのぼり、そのうち数十万人が西のカリフォルニアを目指した。干ばつだけでなく、借金や、機械化で小作人が要らなくなったことも、人々を土地から押し出した。移住者は出身地にかかわらず「オーキー」というさげすみの呼び名で呼ばれ、カリフォルニアでは歓迎されなかった。1936年には、ロサンゼルス市の警察が州境に警官を送り、貧しい移住者を追い返そうとする、法的な根拠の怪しい作戦まで行った。
この時代は、写真と文学と歌に記録された。ローズヴェルト政権の農業の役所は写真家を雇い、農村の窮状を撮らせた(ニューディール)。その一人ドロシア・ラングが1936年にカリフォルニアの豆の収穫の野営地で撮った、子どもたちに寄りかかられて遠くを見つめる母親の写真は、この時代を象徴する一枚になった。写っていたフローレンス・オーウェンズ・トンプソンは、7人の子を抱えた32歳の女性で、先住民のチェロキーの出身だった。彼女は後年、この写真で自分が見世物になったことに複雑な思いを語り、写真家は名前を聞かなかったと述べている。1939年、作家ジョン・スタインベックは、オクラホマからカリフォルニアへ向かう一家を描いた『怒りの葡萄』を出し、ピュリッツァー賞を受けた。この本はカリフォルニアの一部の郡で禁書になった。オクラホマからカリフォルニアへ渡った歌い手ウディ・ガスリーは、1940年に砂嵐と移住の歌を集めたレコードを出した。

国は、土を守る仕組みを作った。1935年に土壌保全の役所が生まれ、ベネットが初代の長官に就いた。彼は1920年代から、土の侵食は国を脅かす問題だと警告し続けていたが、長く相手にされなかった人である。農家には、斜面に沿って横に耕す等高線の耕作、違う作物を帯状に交互に植えるやり方、作物の入れ替え、刈り株を畑に残す耕し方、そして草地に戻すことが勧められた。協力した農家にはお金が払われた。1935年から1942年にかけては、カナダの国境からテキサスまで、大平原を南北に貫くように防風林を植える事業が行われ、2億本を超える木が植えられた。耕すのに向かない土地は政府が買い上げて草地に戻し、その一部はいまも国の草原として管理されている。
1930年代の終わりに雨が戻り、砂嵐はおさまった。1950年代には、30年代に匹敵する日照りが再び平原を襲ったが、被害はずっと小さかった。保全のやり方が効いたのである。

ただ、平原の農業は、別の危うさを抱えるようになった。大平原の地下には、オガララ帯水層という、長い時間をかけてたまった巨大な地下水の層がある。1950年代から、この水が灌漑のために大量に汲み上げられ、いまの平原の豊かな畑を支えている。しかし汲み上げる速さは、水がたまる速さをはるかに上回り、すでに涸れた地域もある。21世紀に入ってからは、日照りの年に再び大きな砂嵐が報告されるようにもなった。
ダストボウルは、天災であると同時に、人が招いた災害だった。草を剥がしたのは人であり、その土地の気候を見誤ったのも人だった。土は資源であり、一度失えば、人の一生の長さではとても取り戻せない。