人物

好太王

Gwanggaeto the Great
AD374年 – AD412年(享年38・推定)
高句麗重要度 3

概要

高句麗を最大に広げた王。息子が建てた碑が、この時代の朝鮮半島と倭を伝える一級史料になる。

所属

高句麗

関わったできごと(1)

好太王碑AD414年 · 顕彰された当人

本文

374年、高句麗の故国壌王の子として生まれた。名は談徳。生まれる3年前の371年、祖父の故国原王は、平壌城を攻めてきた百済の近肖古王と戦って戦死していた。高句麗は南の百済に押され、北西では鮮卑の前燕・後燕に脅かされていた。伯父の小獣林王は仏教を受け入れ(高句麗への仏教伝来)、律令を定めて国の立て直しにかかっていた。

広開土王碑の碑文(部分)
広開土王碑の碑文(部分)Wikimedia Commons Straitgate · Public domain

王位に就いたのは18歳のとき、碑文によれば391年である(朝鮮の正史『三国史記』は392年とし、1年ずれる)。永楽という年号を立てた。朝鮮半島で年号が使われたことが確かめられる最も古い例とされる。

在位21年で、高句麗を最大に広げた。碑文は、年ごとにどこを攻めたかを並べる。395年には北西の稗麗を討ち、多くの家畜を得た。396年には自ら水軍を率いて百済を攻め、58の城を落として都に迫った。百済の阿莘王は降伏し、以後は永く高句麗の「奴客」となると誓ったという。

400年、新羅から、倭の兵が国に満ちているという救援の求めが届いた。王は5万の兵を送り、倭の兵を追って任那加羅にまで至ったと碑文は書く。404年には、帯方の旧地に侵入した倭を撃ち破ったとある。北西では後燕と遼東をめぐって争い、遼河の東を押さえた。晩年には東扶余を攻めている。北は満洲、南は漢江流域まで、王の時代に高句麗の領域は最も広がった。

新羅への影響は、思わぬところから裏づけられた。1946年、韓国の慶州の古墳(壺杅塚)から青銅の器が出土し、その底に、乙卯の年(415年)の銘とともに「国岡上広開土地好太王」の名が刻まれていた。王の死後に高句麗で作られた器が、新羅の王族の墓に納められていたことになる。救援の後、新羅は高句麗に王族を人質として送るなど、強い影響の下に置かれていた。

王の墓は、碑から数百メートル離れた太王陵と考える研究者が多い。そこからは「太王の陵が山のように安らかで、岳のように固くあるように」と願う文字の入った塼が見つかっている。

412年、39歳で死んだ。2年後の414年、息子の長寿王が、都の国内城(いまの中国吉林省集安)の近くに、高さ6メートルを超える石碑を建てた(好太王碑)。四面に1700字あまりが刻まれ、始祖・鄒牟王の建国伝説(高句麗の建国(伝承))から説き起こし、王の戦いを年ごとに記し、最後に王墓を守る墓守の家々の決まりを定めている。

その中に、倭に関する一節がある。辛卯の年(391年)に倭が「来渡海破」した、と読める箇所で、主語をどう取るか、欠けた字をどう補うかで、意味が大きく変わる。倭が海を渡って百済などを破ったと読む説があり、海を渡って倭を破ったのは高句麗だと読む説がある。読み方をめぐって、日本と韓国の研究者のあいだで論争が続いてきた。

碑は1880年頃に再発見され、日本陸軍の将校が拓本を持ち帰った。1970年代には、日本軍が石灰を塗って字を改ざんしたという説が出され、大きな論争になった。その後、石灰が塗られる前の古い拓本が見つかり、意図的な改ざんの説はいまではほぼ退けられている。それでも、一節の読み方そのものの議論は終わっていない。

どの読み方を取るにしても、高句麗が自国の武功を誇るために書いた文書だ、という前提を外して読むことはできない。倭の脅威を大きく書くほど、それを打ち払った王の功は大きくなる。同じ時期の倭については、中国の史書に残る倭の五王の記事が、別の角度からの手がかりになる。

「好太王」は略した呼び名で、碑には「国岡上広開土境平安好太王」とある。韓国では「広く土地を開いた王」という意味で広開土大王と呼ばれる。息子の長寿王は427年に都を平壌へ移し(高句麗の平壌遷都)、父の広げた国を南へ押し進めた。475年の百済の漢城陥落は、その延長にある。

韓国では、満洲まで国を広げた英雄として、教科書や艦船の名に名を残す。中国では、集安の碑と王陵は世界遺産に登録され、高句麗は中国史の中の地方政権として説明されることが多い。一つの石碑が、いまも三つの国の歴史の見方の交わるところに立っている。

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