人物

法顕

Faxian
AD337年頃 – AD422年頃(享年85・推定)
東晋重要度 3

概要

60歳を過ぎてインドへ発ち、14年かけて陸路で行き海路で帰った。玄奘の200年前の旅。

関わったできごと(1)

法顕の求法の旅399年 · 当人

本文

法顕は、俗姓を龔といい、いまの山西省の平陽郡武陽の人である。兄が三人いたがみな幼くして死んだため、父は災いが及ぶのを恐れ、3歳の法顕を出家させて沙弥にしたと伝えられる。20歳で正式な僧となった。東晋の成立のあと、華北は五胡の諸国が争い、仏教は広まりつつあったが、経典はまだ足りなかった。とりわけ僧の暮らしの決まりを定めた戒律は、断片しか伝わっていなかった。法顕はそれを嘆き、インドへ戒律の原本を取りに行くことを決めた。

法顕の像(シンガポール海洋博物館)
法顕の像(シンガポール海洋博物館)Wikimedia Commons Ms Sarah Welch · CC0

399年、法顕は長安を発った。60歳を過ぎていた。慧景、道整、慧応、慧嵬の4人が同行した。2年後、この同じ長安に鳩摩羅什が迎えられて大翻訳を始める(鳩摩羅什の長安入り)が、法顕はそれを待たなかった。

敦煌から先は、沙河と呼ばれる砂漠だった。旅の記録『仏国記』(法顕伝)は、そこを「上に飛ぶ鳥なく、下に走る獣なし」と書き、ただ死人の枯れた骨を道しるべにするしかなかった、と続ける。17日かけて渡り、鄯善、于闐(ホータン)へ進んだ。于闐では、仏像を車に載せて町を練り歩く盛大な祭りを見ている。

『仏国記』(法顕の旅行記)の初版の木版本(12世紀)
『仏国記』(法顕の旅行記)の初版の木版本(12世紀)Wikimedia Commons Faxian (5th century) · Public domain

パミールを越え、インダス川の上流の険しい道を進んだ。崖に刻まれた足場と、縄の吊り橋をたどる道だったという。仲間は次々に離れた。帰った者もあり、別の道を行った者もあり、死んだ者もいた。小雪山という山を越えるとき、慧景が寒さに倒れ、口から白い泡を吹いて、自分はもう助からない、あなたは行け、と言って息を引き取った。法顕は遺体をなでて泣いたと書いている。

北インドに入った法顕は、釈迦ゆかりの地を巡った。祇園精舎、王舎城、霊鷲山、そして悟りの地ブッダガヤ。当時のインドはグプタ朝の時代で(グプタ朝の黄金時代)、法顕は人々が穏やかに暮らし、刑罰が軽いことを記している。ガンジス川沿いの都パータリプトラ(華氏城)に3年とどまり、サンスクリットを学びながら、念願の戒律の写本を手に入れた。最後まで共にいた道整は、この国の僧の暮らしに感じ入って、もう中国には帰らないと言い、インドに残った。法顕はここから一人になる。

アショーカ王の宮殿跡に立つ法顕
アショーカ王の宮殿跡に立つ法顕Wikimedia Commons Allan Stewart · Public domain

ガンジス川を下って港町タームラリプティで2年、経典を写し、仏像を描いた。それから商船でスリランカへ渡り、さらに2年を過ごした。ある日、寺の玉の仏像の前に、商人が中国の白い絹の扇を供えているのを見た。故郷を出て長い年月がたち、知る人は皆いなくなっていた。法顕は思わず涙を流したという。記録の中で、彼が自分の感情を書いた数少ない場面である。

帰りは海路だった。大きな商船に乗り込んだが、途中で嵐にあい、船は浸水した。積み荷を捨てるなか、法顕は経典と仏像だけは捨てなかった。たどり着いた島(ジャワ島ともスマトラ島ともいわれる)で5か月を過ごし、別の船で広州を目指した。そこでもまた嵐にあう。同船のバラモンたちが、この沙門を乗せたせいで災いが来たのだ、島に下ろしてしまえ、と言い出した。法顕の後ろ盾になっていた商人が、そうするなら自分も降りる、さもなくば私を殺せ、中国に着いたらこのことを国王に訴える、と言って止めた。

法顕のインド・中央アジア周遊路(1869年、ビールの著書より)
法顕のインド・中央アジア周遊路(1869年、ビールの著書より)Wikimedia Commons Public domain

船は進路を外れ、412年、山東半島の牢山(いまの青島の嶗山)の海岸に着いた。出発から14年近くたっていた。法顕は都の建康へ移り、インドの僧ブッダバドラとともに、持ち帰った『摩訶僧祇律』や『大般泥洹経』などを訳した。旅の記録も自ら書いた。晩年は荊州の寺で過ごし、80歳を過ぎて死んだとされる。

『仏国記』は、5世紀初めの中央アジア・インド・スリランカの様子を伝える、ほとんど唯一の目撃記録として、いまも各国で読まれている。200年あまりのち、玄奘が同じように戒律と経典を求めて西へ旅立った(玄奘の西域行)。玄奘は、先人として法顕の名を挙げ、自分を励ましたと伝えられる。この旅そのものについては法顕の求法の旅にくわしい。

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