ヴァンダルのローマ略奪

概要
海から来て2週間かけて運び出した。「ヴァンダリズム」という言葉はこの一件から作られた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ガイセリックAD389年頃–AD477年1月25日 · 王本文
ヴァンダル人は、もとはオーデル川やヴィスワ川のあたりにいたゲルマン系の人々である。5世紀の初めにライン川を越えてローマ領のガリアに入り、ヒスパニアを経て、429年、王のガイセリックに率いられて海峡を渡り、北アフリカへ移った。その数は8万人ほどと伝えられる。ヴァンダル人は北アフリカの町々を次々と落とし、439年には西ローマ帝国の大都市カルタゴを奪った(ガイセリックのカルタゴ占領)。北アフリカは、ローマの都へ穀物を送る大切な穀倉だった。ガイセリックはカルタゴの港で艦隊を造り、地中海の島々や沿岸を荒らし回った。
この頃の西ローマ帝国は、名ばかりの皇帝の下で、将軍たちが実権を握っていた。帝国を支えていたのは将軍のアエティウスで、451年にはフン人のアッティラの軍をガリアで退けている。だが454年、皇帝ウァレンティニアヌス3世は、アエティウスを自らの手で殺した。翌455年3月、今度は皇帝がアエティウスの部下たちに殺された。

後を継いだのは、元老院議員のペトロニウス・マクシムスだった。マクシムスは前の皇帝の未亡人エウドクシアを妻にし、その娘を自分の息子に嫁がせた。この娘は、それまでガイセリックの息子と婚約していた。婚約を破られたことは、ガイセリックに格好の口実を与えた。未亡人のエウドクシアがガイセリックを呼び寄せたという話も伝わるが、後の噂とみる研究者が多い。
455年5月、ヴァンダルの艦隊がローマの外港に現れた。町は恐慌に陥った。マクシムスは逃げようとしたところを群衆か兵に襲われて殺され、遺体はテヴェレ川に投げ込まれたという。皇帝となってわずか2か月あまりのことだった。

数日後、ヴァンダル軍がローマに入った。このとき、教皇レオ1世が城門の外でガイセリックを迎え、町の人々を殺さず、建物に火を放たず、拷問をしないように頼んだと、同時代の年代記は伝えている。ガイセリックはその願いをおおむね聞き入れた。その代わりに、14日間にわたって、町の富を組織立って運び出した。
運び出されたものの中には、皇帝の宮殿の財宝、貴族の屋敷の金銀、教会の器、そしてカピトリウムの丘のユピテル神殿の屋根を覆っていた金めっきの青銅の瓦の半分があった。さらに、紀元70年にローマ軍がエルサレムを落とした際に神殿から持ち帰っていた祭具(エルサレム神殿の破壊)も、ヴァンダルの船に積まれてカルタゴへ運ばれたと伝えられる。人も連れ去られた。未亡人のエウドクシアと二人の娘、そして奴隷として売るための数千人の住民である。エウドクシアの娘の一人は、約束どおりガイセリックの息子と結婚した。

ローマが外敵に略奪されたのは、西ゴートのローマ略奪から45年ぶりだった。410年のときは、町が略奪されたことそのものが大きな衝撃で、アウグスティヌスが『神の国』を書くきっかけにもなった。455年の略奪は、期間も長く、運び出されたものも多かったが、殺戮や放火は比較的少なく、教皇の交渉もあって、410年より秩序立っていたとされる。
ヴァンダル王国は北アフリカでその後80年近く栄えた。ガイセリックは477年まで生き、東ローマ帝国が送った大艦隊も退けている。西ローマ帝国のほうは、その後20年あまりで、皇帝が次々と立っては倒れ、476年に最後の皇帝が退位させられて終わる(西ローマ帝国の滅亡)。533年、東ローマのユスティニアヌス帝は将軍ベリサリウスを北アフリカへ送り、ヴァンダル王国を滅ぼした。プロコピオスによれば、このときカルタゴでエルサレムの神殿の祭具が見つかり、コンスタンティノープルの凱旋式で披露された後、エルサレムの教会へ送られたという。その後の行方は分かっていない。
「ヴァンダリズム」という言葉が生まれたのは、それから1300年以上たった18世紀の末である。フランス革命のさなか、教会や王家にかかわる彫像や建物が民衆に壊されるのを見て、ブロワの司教グレゴワールが、こうした文化財の破壊を「ヴァンダリスム」と呼んで非難した。この言葉はたちまち広まり、今では公共の物を故意に壊す行為一般を指す語として、多くの言葉に入っている。
だが、実際のヴァンダル人が455年に行ったのは、町の破壊というより、計画的な財宝の運び出しだった。後のヨーロッパの人々が、ローマの栄光を奪った野蛮人の代表としてヴァンダルの名を選んだことで、彼らの名は破壊の代名詞として残った。言葉のほうが、出来事そのものより長く、そして強く生き残ったのである。