できごと

ペミカン布告

Pemmican Proclamation
AD1814年1月8日
重要度 3
大英帝国ルパート・ランドスペイン帝国デンマーク=ノルウェーアメリカ合衆国ヌエバ・エスパーニャ副王領ルイジアナアメリカ合衆国イヌピアットケベックT'atsaot'ineEyaqAcadian Peninsula (UK)AD1814年1月8日レッドリヴァー植民地(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1814年1月8日の版図を描いています(13勢力)。

概要

北米の平原の人々は、バイソンの肉を薄く切って干し、砕いて、溶かした脂と混ぜ、皮の袋に詰めた。ペミカンと呼ばれるこの食べ物は、軽く、何年も持ち、少しで力が出る。毛皮を運ぶカヌーの漕ぎ手たちは、これなしでは遠い奥地まで行けなかった。その平原の真ん中に、ハドソン湾会社の後ろ盾で入植地が作られた。1814年、入植地の総督は、冬の食料が足りないとして、土地からペミカンを持ち出すことを禁じた。ペミカンに頼っていた競争相手の毛皮会社と、それを作っていたメティスの人々は怒り、二年後、血が流れた。

場所

レッドリヴァー植民地位置は特定されていない(誤差 ±km)
49.92°N -97.12°E · カナダ・マニトバ州

本文

北アメリカの大平原に暮らす人々は、バイソンを狩って生きてきた。そのバイソンの肉から作る保存食が、ペミカンである。名は、平原の先住民クリーの言葉で脂を意味する語から来ている。

作り方はこうである。バイソンの赤身の肉を薄く切り、日に当てたり火の上に吊るしたりしてからからに干す。干し上がった肉を石で叩いて砕き、粉のようにする。そこへ、骨や脂身から煮出して溶かした脂を、ほぼ同じ量だけ流し込んで混ぜる。サスカトゥーンと呼ばれる木の実などの干した実を加えることもある。これをバイソンの皮で作った袋に詰めて口を閉じると、冷えて固まった脂が中身を空気から守り、何年も腐らない。軽くて、かさばらず、ほんの少し食べるだけで長い時間働ける力が出る。冷蔵の手段のない時代、これほど優れた携帯の食料はなかった。

セルカークに与えられた土地(アシニボイア)
セルカークに与えられた土地(アシニボイア)Wikimedia Commons George Bryce · Public domain

十八世紀から、北アメリカの奥地では毛皮の取引が盛んになった。目当ては主にビーバーの毛皮である。ビーバーの柔らかい毛は、フェルトに加工すると上等な帽子になり、ヨーロッパで高く売れた。毛皮を集めるのは先住民の狩人たちで、ヨーロッパから来た商人は、鉄の鍋や斧、銃、布、ガラス玉と引き換えに毛皮を手に入れた。

奥地で集めた毛皮を運び出し、交易の品を運び込むのは、カヌーの漕ぎ手たちだった。フランス語で「旅する人」を意味する「ヴォワイヤジュール」と呼ばれた男たちで、多くはフランス系のカナダ人だった。彼らは樺の皮で作った大きなカヌーに荷を満載し、一日に十数時間も漕ぎ続けた。川が途切れれば、カヌーと荷を担いで陸を越える。狩りをしたり食べ物を探したりする暇はない。彼らを動かす燃料が、ペミカンだった。モントリオールから遠く北西の奥地まで、毛皮の道は数千キロメートルに及んだ。その道の途中に、ペミカンを蓄えておく拠点が置かれていた。

プロテスタント教会と伝道学校、レッドリヴァー植民地(1820〜40年頃)
プロテスタント教会と伝道学校、レッドリヴァー植民地(1820〜40年頃)Wikimedia Commons C. Heath · CC BY 2.0

ペミカンを作り、毛皮の商人に売っていたのは、平原の先住民と、メティスと呼ばれる人々だった。メティスは、毛皮の商人や漕ぎ手として奥地に入ったヨーロッパ系の男たちと、先住民の女性との間に生まれた子孫である。フランス語やクリー語を話し、カトリックを信じ、馬に乗ってバイソンの群れを追う。彼らはヨーロッパの側にも先住民の側にも属さない、独自の暮らしと文化を育てていた。

この毛皮の取引をめぐって、二つの会社が激しく争っていた。一つは、ロンドンに本社を置き、1670年にイギリス国王から特許状を得たハドソン湾会社である。北の大きな湾(ハドソン湾の発見と遭難)に流れ込む川の流域すべてを、自分たちの交易の縄張りとしていた。もう一つは、モントリオールの商人たちが作った北西会社で、ヴォワイヤジュールのカヌーで奥地深くまで入り込み、ハドソン湾会社の縄張りを荒らしていた。北西会社の長い毛皮の道は、平原で作られるペミカンなしには成り立たなかった。

1812年、ハドソン湾会社の大株主だったスコットランドの貴族セルカーク伯の後ろ盾で、平原の真ん中、レッドリヴァーの流域に入植地が作られた。故郷の土地を追われたスコットランドの貧しい農民たちを移り住ませ、畑を開かせる計画である。だがこの場所は、ちょうど北西会社がペミカンを手に入れ、奥地へ運ぶ道の要にあたっていた。

入植地の暮らしは苦しかった。慣れない土地で畑の実りは乏しく、冬を越す食べ物が足りない。1814年1月8日、入植地の総督マイルズ・マクドネルは布告を出した。入植地の領域から、許しなく食料を運び出すことを禁じる。干し肉も、ペミカンも、である。入植者が冬を越すための食料を確保する、というのがその理由だった。

だが、北西会社にとって、これは命綱を断たれることに等しかった。ペミカンがなければ、漕ぎ手たちは奥地へ行けず、毛皮の道は止まる。メティスの人々にとっては、自分たちが代々暮らしてきた平原で、よそから来た者が勝手に商いを禁じることだった。マクドネルの手下がペミカンの蓄えを差し押さえると、怒りは決定的になった。

争いは年ごとに激しくなった。1815年、北西会社はマクドネルを捕らえて東へ送り、入植者の多くを入植地から立ち去らせた。入植地はいったん立て直されたが、1816年6月、セブン・オークスと呼ばれる場所で、新しい総督ロバート・センプルの一団と、カスバート・グラントに率いられたメティスの一団がぶつかった。銃撃の末、総督を含む入植地の側の二十人ほどが命を落とした。メティスの側の死者は一人だった。

血が流れたことで、二つの会社の争いは、どちらにとっても割に合わないものになった。1821年、イギリス政府の後押しで二つの会社は合併し、ハドソン湾会社の名の下に一つになった。ペミカンをめぐる争いは、こうして終わった。

この争いの中で、メティスの人々は、自分たちを一つの民として意識し始めたと言われる。自分たちの土地と暮らしを、よそ者から守る。その思いは、半世紀後、カナダが一つの国にまとまっていく中で、レッドリヴァーのメティスが自分たちの権利を求めて立ち上がる動きへとつながっていく(カナダ連邦の成立)。

だが、平原の暮らしそのものは、十九世紀の後半に崩れていった。鉄道が通り、銃を持った狩人たちが皮を取るためにバイソンを大量に撃ち殺し、数千万頭いたとされる群れは、ほとんど消えてしまった(アメリカバイソンの激減)。バイソンがいなくなれば、ペミカンも作れない。ペミカンで回っていた平原の経済は、それとともに終わった。

ペミカンという食べ物は、その後、別の旅人たちに受け継がれた。軽くて、腐らず、少しで力が出る保存食は、北極や南極を目指す探検隊にとっても理想の食料だったのである。二十世紀の初め、北極点や南極点を目指した探検隊は、牛肉などで作ったペミカンを橇に積んで氷の上を進んだ(アムンセンの南極点)。保存食は、遠くへ行くための燃料である。その燃料を押さえた者が、道を押さえる。塩と樽を押さえてニシンの商いを握った北ドイツの商人たちと(スコーネのニシン市)、ペミカンをめぐって争った毛皮の会社は、同じ理屈の上に立っていた。

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