概要
19世紀の半ばのニューヨークには、親を失い、あるいは捨てられて、路上で新聞売りや靴磨きをして暮らす子どもが何万人もいた。牧師チャールズ・ローリング・ブレイスは、児童援助協会を作り、こうした子どもたちを西部の農村の家庭に送り出すことを考えた。1854年9月、最初の子どもたちが列車でミシガンへ向かった。子どもたちは途中の駅で並ばされ、農家の人々が引き取る子を選んだ。1929年までに二十万人を超える子どもが運ばれた。家族として愛された子もいれば、働き手として酷使された子もいた。この試みは、のちの里親の制度の源の一つになった。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
19世紀の半ば、ニューヨークは、アイルランドやドイツからの移民で急に膨れ上がっていた。貧しい移民の家族は狭い集合住宅にひしめき、病気や事故で親が死ぬと、子どもたちは路上に放り出された。親が子を養えずに手放すこともあった。何万人もの子どもたちが、新聞売りや靴磨き、物乞い、盗みをして生き延び、夜は路地や階段の下で眠った。彼らは「ストリート・アラブ」と呼ばれた。
1853年、若い牧師チャールズ・ローリング・ブレイスは、児童援助協会を作った。ブレイスは、子どもたちを施設に閉じ込めるより、清らかな空気の中で、勤勉な農家の家族と暮らすほうが、子どもを救うと考えた。西部の農村では、働き手が足りていなかった。1854年9月、協会は最初の46人の子どもたちを、列車でミシガン州のダウアジャックという町へ送った。
子どもたちを乗せた列車は、中西部の町々に止まった。駅や教会に集まった農家の人々の前に、子どもたちは並ばされ、体つきや歯を調べられ、引き取る家族に選ばれた。兄弟や姉妹がばらばらに引き取られることもあった。選ばれなかった子どもは、また列車に乗せられ、次の町へ向かった。協会の係員が、のちに家庭を見回ることになっていたが、その見回りは行き届かなかった。
こうした列車は、1929年まで75年にわたって走り続け、児童援助協会や、カトリックの孤児院などの手で、二十万人を超える子どもが運ばれたとされる。引き取られた家族の一員として愛され、教育を受け、のちに州知事や判事になった子もいた。一方で、無償の働き手として酷使され、学校にも行かせてもらえず、虐待を受けた子もいた。自分の出自を知らされず、生涯その記憶に苦しんだ人も多い。
20世紀に入ると、子どもを家族から引き離して遠くへ送るやり方への批判が強まり、州ごとに子どもの保護の法が整えられていった。孤児列車は、子どもを施設ではなく家庭で育てるという考えを広め、のちの里親の制度の源の一つになった。