概要
第二次世界大戦のあと、ヨーロッパには、故郷に帰れない難民が百万人以上残っていた。1950年12月14日、国際連合の総会は、難民を国際的に保護する国連難民高等弁務官事務所、UNHCRを作ることを決めた。3年で仕事を終える予定の小さな事務所だった。翌1951年に結ばれた難民条約は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団への所属、政治的な意見を理由に迫害を受けるおそれがあるため国の外にいる人を難民と定め、迫害の待つ国へ送り返してはならないとした。難民はその後も増え続け、UNHCRは世界最大級の人道の機関になった。
場所
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)
本文
第一次世界大戦とロシア革命のあと、ヨーロッパには、国を失った難民が何百万人も生まれた。国際連盟は、ノルウェーのナンセンを難民高等弁務官に任じ、国籍の無い難民に身分の証明書を与えた(ナンセン・パスポート)。だが、それは一部の難民に向けた、その場しのぎの仕組みだった。1930年代、ナチ・ドイツから逃れようとしたユダヤ人の多くは、受け入れてくれる国を見つけられなかった。
第二次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパには、戦争と国境の変更で故郷を追われた人が数千万人いた。多くは数年のうちに帰るか、新しい土地に落ち着いたが、東欧の共産主義の国へ帰ることを拒む人々など、百万人以上が収容所に残っていた。
1950年12月14日、国際連合の総会は、国連難民高等弁務官事務所、UNHCRを作ることを決めた。翌年1月に仕事を始めたとき、職員は30人あまり、予算はわずかで、3年で役目を終えるはずだった。初代の高等弁務官は、オランダのファン・ヒューフェン・フッドハルトだった。
1951年7月28日、難民の地位に関する条約が結ばれた。条約は、人種、宗教、国籍、特定の社会集団の構成員であること、または政治的な意見を理由に、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖のために、国籍国の外にいる人を難民と定めた。そして、難民を、その生命や自由が脅かされるおそれのある国へ追放したり送還したりしてはならないとした。この「ノン・ルフールマン」の原則は、難民の保護の要である。条約は、はじめ1951年より前のヨーロッパでの出来事による難民に限られていたが、1967年の議定書でその限りがなくなった。
難民はその後も生まれ続けた。1956年のハンガリー動乱、アフリカの独立と内戦、インドシナの戦争、アフガニスタン、旧ユーゴスラヴィア、ルワンダ、シリア、ウクライナ。UNHCRは仕事を終えるどころか、世界最大級の人道の機関になり、1954年と1981年にノーベル平和賞を受けた。1991年から2000年まで、日本の緒方貞子が高等弁務官を務めた。日本はインドシナの難民の受け入れをきっかけに、1981年に難民条約に加わったが、難民と認める人の数は、ほかの先進国に比べて極めて少ない。紛争や迫害で家を追われた人は、2020年代には世界で一億人を超えている。