できごと

涙の道

Trail of Tears
1830年 – 1850年
期間を持つできごと重要度 5
涙の道に関わる図版:TrailofTearsMemorial-3
TrailofTearsMemorial-3 Wikimedia Commons http://en.wikipedia.org/wiki/User:Cculber007 · Public domain

概要

南部の五つの部族が、法律で西へ移された。チェロキーは最高裁で勝訴したが、大統領が判決を無視した。移動の途中で4000人以上が死んでいる。

場所

ニュー・エコタ
34.54°N -84.91°E · アメリカ合衆国・ジョージア州(チェロキー国の首都跡)

関わった人(1)

アンドリュー・ジャクソンAD1767年3月15日–AD1845年6月8日 · 移住法

本文

アメリカ合衆国の南東部、いまのジョージア、アラバマ、テネシー、ミシシッピ、フロリダには、もともと多くの先住民の国々があった。チェロキー、クリーク(マスコギー)、チカソー、チョクトー、セミノールの五つの部族は、白人の入植者と長く接するなかで、農業を営み、家畜を飼い、一部は黒人の奴隷を使う農園まで持つようになっていた。白人の側は彼らを「文明化した五部族」と呼んだ。白人の暮らしに近い、という意味である。

中でもチェロキーは、自らの国家の形を整えていた。1821年、セコイアがチェロキー文字の完成を完成させると、数年のうちに多くの人が読み書きを身につけた。1827年には三権分立を定めた憲法を作り、首都ニュー・エコタに議会と裁判所を置いた。1828年からは、チェロキー語と英語で書かれた新聞『チェロキー・フェニックス』が発行された。

チェロキー文字の完成に関わる図版:Cherokee sample
チェロキー文字の完成Wikimedia Commons Kaldari · CC0

それでも、入植者は彼らの土地を欲しがった。綿花の栽培が広がり、肥えた土地への需要は高まる一方だった。1828年ごろ、チェロキーの土地のダロネガで金が見つかると、白人が押し寄せた。ジョージア州は、州内のチェロキーの土地に州法を適用し、チェロキーの政府と法を無効だと宣言した。

先住民をミシシッピ川の西へ移すという考えは、1803年のルイジアナ買収で西の広大な土地を手に入れたころ、ジェファーソン大統領の時代からあった。1829年に大統領になったアンドリュー・ジャクソンは、先住民との戦争で名を上げた軍人で、先住民をミシシッピ川の西へ移すことを強く望んでいた。1830年5月、インディアン移住法が議会を通った。下院では102対97の僅差だった。法そのものは、大統領が先住民と土地の交換を交渉することを認めるもので、移住は形の上では条約による自発的なものとされた。だが実際には、圧力と買収と脅しの中で条約が結ばれていく。

涙の道の経路
涙の道の経路Wikimedia Commons User:Nikater · Public domain

チェロキーは裁判で争った。1831年、最高裁は、チェロキーは外国ではなく「国内の従属的な国」だとして訴えを退けた。だが翌1832年、白人の宣教師がジョージア州法に違反したとして投獄された事件で、マーシャル長官の最高裁は、チェロキーの土地にジョージア州の法は及ばないと判決した。ジャクソンはこの判決を執行させようとしなかった。マーシャルが判決を下したのなら執行させてみよ、とジャクソンが言ったという話は有名だが、確かな記録はなく、後に作られた言葉とされる。

最初に西へ移されたのはチョクトーで、1831年から冬の寒さと病の中を歩かされ、多くが途中で死んだ。チョクトーの指導者の一人が、それを「涙と死の道」と語ったと新聞が伝えている。クリークは1836年に軍によって追い立てられた。セミノールは移住を拒んでフロリダの湿地で戦い、第二次セミノール戦争は1835年から1842年まで続いて、アメリカ軍に大きな損害を出した。

涙の道で死んだチェロキー族の記念碑
涙の道で死んだチェロキー族の記念碑Wikimedia Commons http://en.wikipedia.org/wiki/User:Cculber007 · Public domain

チェロキーの中でも意見は割れた。首長ジョン・ロスと多数派は移住を拒み続けたが、抵抗しても土地を失うだけだと考えた少数の指導者たちが、1835年にニュー・エコタ条約に署名した。部族の正式な同意を得ていない条約で、1万5000人を超えるチェロキーが反対の請願を出した。それでも上院は、批准に必要な3分の2をわずか1票上回る賛成で条約を承認した。

期限の1838年5月が来ると、スコット将軍の率いる軍がチェロキーの家々を回った。食事の途中で、畑の仕事の途中で、人びとは銃を突きつけられて家を出され、柵で囲った収容所に入れられた。家は略奪された。夏の暑さと病で、収容所の中でも多くが死んだ。秋になって、1万6000人ほどが十数の集団に分かれ、陸路と川をたどって西へ向かった。およそ1000マイル、1600キロの道のりで、旅は冬にかかった。凍えた道を毛布も十分にないまま歩き、子どもと老人が次々に倒れた。到着は翌1839年の春になった。

ジョン・ロス首長
ジョン・ロス首長Wikimedia Commons Charles Bird King · Public domain

収容所と道中で死んだチェロキーは、4000人ほどとされることが多い。推計には2000人から8000人まで幅がある。五部族全体では、1830年代から40年代にかけて6万人ほどが故郷を追われた。移住の後、条約に署名した指導者たちの何人かは、裏切り者として暗殺された。ノースカロライナの山中に隠れて残った人びとの子孫は、いまも東部チェロキーとしてその地に暮らしている。

移された先は、ミシシッピ川の西の「インディアン準州」、いまのオクラホマだった。そこは永遠に先住民の土地とされたはずだった。だが南北戦争の後、五部族の土地は削られ、1889年からは白人の入植のために土地が次々に開放された。1907年、準州はオクラホマ州として合衆国に組み込まれる。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

チェロキー語で、この移動は「我々が泣いた道」と呼ばれる。英語では「涙の道」として知られ、1987年には移動の経路が国の歴史街道に指定された。アメリカの民主主義が広がった時代として語られるジャクソンの時代は、先住民にとっては故郷を奪われた時代だった。合衆国の20ドル紙幣にはいまもジャクソンの肖像が使われており、それを改めるべきかどうかが議論されてきた。

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