蒸気船の大西洋定期航路
概要
同じ日に2隻がニューヨークに着いた。小型のシリウス号(石炭が尽き、家具と予備の帆桁を焚いたと伝わる)と、ブルネル設計のグレート・ウェスタン号。石炭を積むほど船体は大きくなければならず、大きな船ほど効率がよい(体積は三乗、抵抗は二乗で増える)。ブルネルはそれを見抜いていた。風待ちが消え、航海が時刻表になった。1840年、キュナードが定期便を始めた。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
蒸気機関を船に載せる試みは、十八世紀の終わりから各地で行われていた(ワットの蒸気機関)。1807年には、アメリカのロバート・フルトンの蒸気船が、ニューヨークからハドソン川をさかのぼり、定期の運航を始めている。しかしそれは、川や湖、陸に沿った近い海での話だった。
外洋の、それも大西洋を蒸気だけで渡るには、大きな壁があった。石炭である。蒸気機関は大量の石炭を食う。航海が長くなるほど、積まなければならない石炭は増え、その分、客や荷を積む場所が減る。大西洋を渡りきるだけの石炭を積めば、船には何も載らなくなるのではないか。1819年には、蒸気機関を備えたアメリカのサヴァンナ号が大西洋を渡ったが、蒸気で走ったのは航海のごく一部で、ほとんどは帆で進んでいた。

1836年、ロンドンの著名な科学の解説者ディオニシウス・ラードナーは、講演で、イギリスからニューヨークまで蒸気だけで航海することなど、月へ行こうとするようなものだと述べた、と伝えられる。実際の彼の主張は、当時の船の大きさと機関の効率を前提にした、もう少し限られたものだったが、この言葉の形で広まった。
その「不可能」に挑んだのが、技師イザムバード・キングダム・ブルネル(1806〜1859年)である。父はフランス生まれの技師で(マルク・イザムバード・ブルネル)、息子は若くしてその才能を現した。ブルネルはこのころ、ロンドンからイングランド西部の港町ブリストルまでのグレート・ウェスタン鉄道を建設していた。その終点のブリストルから船を出してニューヨークまで結べば、ロンドンからアメリカまでが一続きの路線になる。会社の重役会でそう言い出したのが、事の始まりだったという。この鉄道は、のちに沿線の駅の時計をロンドンの時刻にそろえた最初の鉄道にもなる(鉄道と標準時)。
ブルネルは、船の大きさにまつわる理屈をつかんでいた。船の長さを二倍にすると、積める量、つまり容積は、縦と横と深さがそれぞれ二倍になるので、八倍に増える。一方、船を進めるときに逆らう水の抵抗は、おおよそ水に触れる船体の表面の広さで決まり、四倍にしか増えない。だから、船は大きくすればするほど、積んだ荷の量に比べて必要な燃料が少なくて済む。「蒸気船は大西洋を渡れない」という議論は、当時の小さな船を前提にしていた。船を十分に大きくすれば、壁は越えられる。
こうして、ブルネルの設計で、木造の外輪式の蒸気船グレート・ウェスタン号が造られた。当時としては大きな船で、ブリストルの造船所で進水した。だが、この船が先に大西洋を渡ることを、競争相手は黙って見てはいなかった。別の会社が、大西洋航路のために造っていた自社の船の完成が間に合わないと見ると、アイルランドとイギリスの間を行き来していた小型の蒸気船シリウス号を急いで借り入れ、先に出港させたのである。

シリウス号は1838年4月4日、アイルランド南部のコークの港を出た。小さな沿岸の船で、大西洋を渡れるだけの石炭を積むのは、もともと無理があった。航海の終わり近くに石炭が足りなくなり、船の家具や予備の帆桁まで燃やして走った、と伝えられる。ただし、この話はのちに脚色されたものと考えられている。
グレート・ウェスタン号は、出港の直前に機関室の火事を起こし、出発が遅れた。火事の噂のせいで予約の取り消しが相次ぎ、乗った客はわずか七人だったとされる。4月8日、ブリストルを出港した。

1838年4月23日、二隻はほぼ同時にニューヨークに着いた。シリウス号が先で、航海は十八日あまり。数時間後にグレート・ウェスタン号が入港した。こちらは十五日あまりで渡りきり、石炭はまだ二百トンほど残っていた。港には大勢の見物人が詰めかけ、二隻の蒸気船の到着を祝った。
先に着いたのはシリウス号だったが、大西洋を蒸気船で定期的に渡れることを示したのは、グレート・ウェスタン号のほうだった。シリウス号は数回の航海の後、もとの近い海の航路に戻った。グレート・ウェスタン号は、その後何年にもわたってブリストルとニューヨークの間を往復し続けた。
蒸気船の何よりの強みは、風を待たずに出られることだった。帆船の時代、船は風がよくなるまで港で待ち、いつ出て、いつ着くかは風任せだった。蒸気船は、決まった日に出港し、だいたい決まった日数で着く。航海が、時刻表に載るものになった。1839年、カナダ生まれの実業家サミュエル・キュナードは、イギリス政府から大西洋の郵便を運ぶ契約を取りつけ、翌1840年、リヴァプールからアメリカへの定期便を始めた。キュナードの船は、決まった曜日に港を出た。1842年には作家のチャールズ・ディケンズがこの船でアメリカへ渡り、船室の狭さをこぼした文章を残している。
ブルネルは、さらに二隻の船を造った。1843年に進水したグレート・ブリテン号は、船体を鉄で造り、外輪ではなくスクリューで進む、初めての大型の外洋船だった。外輪は船が波で揺れると水面から浮いて空回りするが、スクリューは常に水の中にある。この組み合わせが、その後の船の形を決めた。この船はいまも修復されて、ブリストルの港に保存されている。
次に造ったグレート・イースタン号は、桁外れだった。全長は二百十メートル近く、当時のどの船よりもはるかに大きい。四千人の乗客を乗せ、途中で石炭を積み足すことなくオーストラリアまで行けるように設計されていた。だが、あまりの大きさに、進水させるだけで三か月かかった。ブルネルは心労を重ね、1859年、処女航海を前に倒れ、五十三歳で亡くなった。この巨船は客船としては採算が合わず失敗に終わったが、その大きさのおかげで、大西洋の海底電信ケーブルを一度に積み込める唯一の船として、思わぬ活躍の場を得る(大西洋横断電信ケーブル)。

蒸気船が大西洋を時刻表どおりに渡るようになると、人とものの流れが変わった。帆船で一か月から二か月かかった大西洋の横断は、十九世紀の後半には十日ほどになった。安く、速く、確かに渡れるようになったことで、ヨーロッパからアメリカへ渡る移民の数は爆発的に増えた。十九世紀から第一次世界大戦までの間に、五千万人を超える人々がヨーロッパを出て、新しい土地へ向かったとされる。その多くが降り立ったニューヨークの港には、やがて移民を受け入れる大きな施設が造られた(エリス島の移民検査場)。
荷の流れも変わった。アメリカやアルゼンチン、オーストラリアの小麦や肉が、蒸気船で安くヨーロッパへ運ばれるようになった。イギリスはすでに穀物の輸入を自由にしていたが(穀物法の廃止)、1870年代になると、新大陸からの安い穀物がヨーロッパの農村を苦しめ、多くの農民が土地を離れた。その人々がまた、蒸気船に乗って海を渡った。

それでも、帆船がすぐに消えたわけではない。むしろ十九世紀の後半、鉄の船体と鋼のマストを持つ大型の帆船が、最盛期を迎えた。石炭の要らない帆船は、急がない重い荷、たとえば南米の硝石や、オーストラリアの羊毛や小麦を運ぶ航路で、二十世紀の初めまで蒸気船と競い続けた。風を待たない航海は、まず人と郵便と急ぎの荷から始まり、時間をかけて海の上を塗り替えていったのである。