ローマ大火

概要
市の大半が焼けた。ネロが放火犯としてキリスト教徒を処断したとタキトゥスは書く。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ネロ37年12月15日–68年6月9日 · 当時の皇帝本文
64年7月18日の夜、ローマの大競技場(キルクス・マクシムス)の東の端、パラティヌスの丘とカエリウスの丘にはさまれたあたりの商店から火が出た。店には燃えやすい品が積まれ、風が強かった。火はたちまち競技場の長い観客席に沿って広がり、丘の斜面を駆け上がった。
当時のローマは、100万近い人が住むとされる大都市だった。その多くは、木の床と梁を持つ何階建ての集合住宅にひしめき合って暮らしていた。通りは細く曲がりくねり、建物どうしが壁を接していた。夜警隊が置かれてはいたが、一度大きく燃え上がった火を止める手立ては無かった。
歴史家タキトゥスは、半世紀ほど後に書いた『年代記』(タキトゥス『年代記』)の中で、この火事を詳しく描いている。逃げまどう人々が細い道で押し合い、老人や子どもが取り残され、家財を抱えた者が煙に巻かれた。火は6日間燃え続け、エスクイリヌスの丘のふもとで建物を大きく取り壊して、ようやく食い止められた。ところがその直後、別の場所から再び火が出て、さらに3日燃えた。タキトゥスによれば、市の14の区のうち、無事だったのは4区だけで、3区が跡形もなく焼け、7区は焼け残った家がわずかしか無かった。

皇帝ネロはこのとき、都から南へ50キロほど離れた海辺の町アンティウムにいた。知らせを受けて都に戻ると、自分の庭園やマルスの野の公共の建物を焼け出された人々に開放し、急いで仮の小屋を建てさせ、近くの町から食料を運ばせて穀物の値段を下げた。対応としては素早いものだった。
それでも噂が立った。火の手が上がったとき、ネロは自分の館の舞台に立ち、トロイアの滅亡の歌を歌っていた、という。タキトゥスはこれをあくまで噂として書いており、火事が偶然のものか皇帝の企てによるものかは分からない、とも述べている。後の時代の歴史家スエトニウスやカッシウス・ディオは、ネロが火を放たせたとはっきり書いているが、根拠は示されていない。「ネロは竪琴を弾きながらローマが燃えるのを眺めていた」という有名な話は、こうした噂が後に形を変えたものである。

噂を打ち消すために、ネロは罪をかぶせる相手を探した。タキトゥスによれば、選ばれたのは、民衆に忌み嫌われていた「クリストゥス信奉者」と呼ばれる人々だった。この名のもとになったクリストゥスは、ティベリウス帝の時代に総督ピラトゥスによって処刑された人物である、とタキトゥスは説明している。ローマの異教徒の著作家がイエスに触れた、最も早い記録の一つである。
捕らえられた人々は、獣の皮を着せられて犬に噛み裂かれ、十字架につけられ、日が暮れると火をつけられて夜の灯りにされた。ネロはこれを自分の庭園で見せものにした。タキトゥス自身はキリスト教徒を嫌っていたが、あまりの残酷さに、人々の間に同情が生まれたと書いている。使徒ペテロとパウロ(パウロ)がこの迫害のときにローマで殉教したという言い伝えがあるが、確かな記録は無い。この時期のローマの当局が、キリスト教徒をユダヤ教徒と区別してとらえていたのかを疑う研究者もいる。

焼けた跡には、新しい都市の決まりが作られた。道幅を広げ、建物の高さを制限し、建物ごとに中庭を設けさせた。表通りに面した家には火事のときの足場となる柱廊を付けさせ、その費用は皇帝が出した。建物の一部には火に強い石を使わせ、隣と壁を共有することを禁じ、家ごとに消火の道具を備えさせた。タキトゥスは、これで都は美しくなったが、古い狭い道の方が日差しを遮って涼しかったと言う者もいた、と付け加えている。
同じころネロは、焼けた都の中心部の広い土地に、巨大な宮殿を建てはじめた。黄金宮殿と呼ばれ、敷地には人工の池と森と牧場が広がり、入口にはネロ自身の巨大な像が立った。焼け跡に自分の楽しみのための館を建てたことが、放火の噂を一層もっともらしく見せた。
宮殿の工事と都の再建には莫大な費用がかかり、この時期には銀貨の質が落とされている。65年には元老院議員らによるネロ暗殺の陰謀が発覚し、68年、各地の軍に背かれたネロは自ら命を絶った。その後の皇帝たちは黄金宮殿を取り壊し、池を埋めた跡に巨大な円形闘技場を建てた(コロッセウムの完成)。コロッセウムという呼び名は、近くに残されたネロの巨像から来たという説がある。