ダブリンの建設
概要
ノルウェーのヴァイキングがリフィー川の河口に船を引き上げる場所を作った。ロングフォート。黒い水たまり、ドゥブ・リン。奴隷市場で栄え、アイルランドの王たちと戦い、1014年にクロンターフでブライアン・ボルに負けても残った。ノルウェー人が作ったアイルランドの首都。
場所
53.35°N -6.26°E · アイルランド
本文
8世紀の終わり、北の海からやってきた船団が、ブリテン諸島の修道院を襲い始めた(ヴァイキングの襲来)。アイルランドにも、795年ごろから襲撃が記録されるようになる。スコットランドの西の小島にあったアイオナの修道院は、アイルランドの修道士たちが開いた信仰の拠点だったが、たびたび襲われ、806年には68人の修道士が殺されたと年代記にある。当時のアイルランドには町らしい町が無く、富と人が集まる修道院が狙われた。襲ってきたのは、主にノルウェーから来たヴァイキングだった。
はじめの襲撃は、夏に来て奪い、冬の前に帰っていくものだった。だが830年代になると、船団は大きくなり、川をさかのぼって内陸まで荒らすようになった。年代記には、トゥルゲイスと呼ばれる首領がアイルランドの北部に勢力を張り、信仰の中心アーマーまで押さえたとも記される。彼は845年、アイルランドの王に捕らえられ、湖に沈められて殺された。

841年、ヴァイキングは、アイルランドの東岸のリフィー川の河口近くに、船を引き上げて冬を越すための砦を築いた。アイルランドの年代記はこうした砦を「ロングフォート(船の囲い)」と呼んでいる。砦が置かれたのは、リフィー川に小さなポドル川が流れ込むところで、そこには黒い水をたたえた淵があった。アイルランド語で「黒い水たまり」を意味する「ドゥブ・リン」が、のちのダブリンの名になった。近くにはアイルランドの人々が川を渡る浅瀬があり、「柵の浅瀬」を意味する「アース・クリアス」と呼ばれていた。いまもアイルランド語でダブリンを「バーレ・アーハ・クリア(柵の浅瀬の町)」と呼ぶのは、この名に由来する。
冬を越す砦は、やがて人が住み着く町になった。ダブリンは北の海とアイルランド海を結ぶ交易の港として栄えた。扱われた品の中でも大きかったのが奴隷である。ヴァイキングはアイルランドやブリテンの人々を捕らえてダブリンに連れてきて、スカンディナヴィアやイスラム世界のスペインへ売り、代わりに銀を手に入れた。ダブリンは、北ヨーロッパで有数の奴隷市場だった。

ダブリンをめぐる争いは、ヴァイキングの間でも起きた。851年には、年代記が「黒い外国人」と呼ぶ新手の集団が来て、それまでいた「白い外国人」と戦った。前者をデンマーク人、後者をノルウェー人とする見方が長く行われてきたが、新しく来た者と古くからいる者の区別だとする説もあり、はっきりしない。853年ごろには、オーラフ(アムラーイブ)と呼ばれる首領が来て「ダブリンの王」となり、イーヴァルとともに、ブリテンのヨークまでまたがる勢力を築いた。
アイルランドの王たちも黙ってはいなかった。902年、アイルランド人の連合軍がヴァイキングをダブリンから追い出したが、917年、イーヴァルの子孫のシトリクが戻って町を取り返した。980年には、タラの戦いでアイルランドの王マール・シェフナルがダブリンの王を破り、ダブリンはアイルランドの王たちに貢ぎ物を納める立場に置かれた。それでも町は、交易の富を持つ独自の都市であり続けた。997年ごろには、ダブリンの王シトリク絹髭が、アイルランドで初めての銀貨を造らせている。
1014年、アイルランドの上王ブライアン・ボルと、ダブリンとレンスターの連合軍が、ダブリンの北のクロンターフで激突した(クロンターフの戦い)。ブライアンの軍は勝ったが、老いたブライアン自身は天幕の中で逃げる敵の手にかかって殺された。シトリク絹髭は戦いに加わらず、城壁の上から戦いを見ていたと、のちのアイスランドのサガは語る。この戦いはのちに、アイルランドがヴァイキングを打ち破った戦いとして語り継がれたが、実際には、アイルランドの王たちの覇権争いに、ダブリンのヴァイキングが加わった戦いという面が強い。ダブリンは負けても残った。

11世紀の半ばからは、アイルランドの有力な王たちが次々にダブリンを押さえ、町は彼らの争奪の的になった。1170年、イングランドから来たノルマン人の貴族ストロングボウの軍がダブリンを攻め落とし、翌年にはイングランド王ヘンリー2世が自ら渡ってきた。ダブリンは、以後800年近くにわたって、イングランドによるアイルランド支配の拠点となる。
ヴァイキングの町の跡は、ダブリンの地下に眠っていた。1960年代から80年代にかけて、リフィー川の南岸のウッド・キーと呼ばれる一帯で発掘が行われ、木の家の跡、編み垣、道、船着き場、櫛や靴、武具など、膨大な遺物が出てきた。市がそこに庁舎を建てる計画を進めると、遺跡を守れという運動が起き、大規模なデモ行進も行われた。結局、庁舎は建てられたが、出てきた遺物は国立博物館に収められている。ダブリンの名のもとになった黒い淵は、いまはダブリン城の裏手の庭の下にあり、庭には「ドゥブ・リン」の名がつけられている。