インダス文明
概要
碁盤の目の街路と下水を備えた都市が並んだ。文字は未解読で、王の墓も神殿も見つかっていない。
場所
27.33°N 68.14°E · パキスタン・シンド州
本文
19世紀の半ば、イギリスはパンジャーブ地方でラホールとムルターンを結ぶ鉄道を敷いた。線路の下に敷く砂利の代わりに使われたのが、近くの遺丘から掘り出された大量の焼き煉瓦である。それが4000年以上前の都市の壁だと分かったのは、1920年代になってからだった。1921年にハラッパーで、翌1922年にはインダス川下流のモヘンジョダロで発掘が始まり、1924年、インド考古局長官のジョン・マーシャルが、エジプトやメソポタミアに並ぶ未知の文明の発見を発表した。
インダス文明は、紀元前2600年頃から前1900年頃にかけて、いまのパキスタンとインド北西部に栄えた。最も栄えたこの時期を考古学では成熟期と呼び、その前には数百年にわたる村落と町の発展の段階がある。見つかった遺跡は1000を超え、その範囲は西はイラン国境近く、東はデリー近郊、南はグジャラートにまで及ぶ。面積では、同じ時代のエジプトやメソポタミアの文明圏より広い。

大きな都市はいくつもあった。モヘンジョダロとハラッパーのほか、インドのグジャラートにあるドーラヴィーラ、ハリヤーナーのラーキーガリーなどが知られる。モヘンジョダロは、西側の一段高い区域と、東側に広がる市街地に分かれ、市街地は南北と東西の大通りで碁盤の目のように区切られていた。人口は数万人と推計されている。
驚かされるのは、規格がそろっていることである。焼き煉瓦の縦・横・厚さの比は、遠く離れた都市どうしでも、おおむね4対2対1にそろっている。重さを量る分銅は、角を落とした立方体の石で作られ、1、2、4、8、16と倍々になる系列に、さらに大きい単位が続く。数百キロ、ときに千キロ以上離れた都市が、同じ物差しと同じ秤を使っていたことになる。

水の扱いも際立っていた。モヘンジョダロでは多くの家に浴びるための場所と便所があり、汚水は家から街路の下の煉瓦の排水路へ流れ込んだ。排水路には蓋がかけられ、ところどころに汚泥をさらうための升が設けられていた。井戸は市内に数百あったと推計されている。高い区域には、天然のアスファルトで防水した長方形の大きな水槽があり、「大浴場」と呼ばれる。沐浴の儀礼に使われたという見方が有力だが、確かなことは分からない。都市の水回りについてはモヘンジョダロの都市計画に詳しい。
交易の網は海の向こうへも延びていた。グジャラートのロータルには、船着き場とみられる大きな煉瓦の水槽がある。インダスの印章や、紅玉髄を長く細く磨いたビーズはメソポタミアの遺跡からも見つかり、メソポタミアの楔形文字の文書には、東方の国「メルッハ」から船が来ると書かれている。アッカドのサルゴンで知られるアッカドのサルゴン王は、メルッハの船が都の岸に着くことを誇った。このメルッハが、インダス文明の地を指すと考えられている。

それでも、分からないことのほうが多い。最大の謎は文字である。インダスの人々は、凍石を彫った四角い印章に、一角獣のような動物の姿と、短い記号の列を刻んだ。記号の種類は400ほど。ほとんどの銘文は5文字前後と短く、長い文章は一つも見つかっていない。何語を書いたものかも分からず、ドラヴィダ系の言語だとする説が有力視されてきたものの、決め手は無い。そもそも言葉を書き表す文字ではなかったのではないかと論じる研究者もいて、論争になっている。
王の姿も見えない。エジプトのピラミッドのような巨大な墓も、メソポタミアのような壮麗な宮殿や神殿も、王の名を刻んだ碑文も、戦勝の場面を描いた浮き彫りも見つかっていない。モヘンジョダロから出た、模様のある衣をまとい目を細めた男の小さな像は「神官王」と呼ばれているが、それは発掘者が付けたあだ名にすぎない。剣や鎧のような武器の出土も、他の古代文明に比べて少ない。

では、誰がこの広い範囲で規格を守らせていたのか。強い王による中央集権の国家だったとする見方もあれば、有力な都市の指導者たちや商人の集団が、ゆるやかに結びついていたとする見方もある。支配の形が、王と神殿と戦争を中心にした他の古代文明とは、かなり違っていた可能性がある。
文明は、紀元前1900年頃から少しずつ姿を変えていった。大きな都市は人が減り、やがて放棄され、印章や文字、そろった分銅も使われなくなる。人々は消えたのではなく、東のガンジス川流域や南の地方に、より小さな村落となって散っていった。かつては、北西から来たアーリヤ人の侵入が文明を滅ぼしたと考えられ、モヘンジョダロの路上の人骨が虐殺の証拠とされたこともあった。だが人骨の年代はまちまちで、この説は今では支持されていない。

衰えの原因として今挙げられているのは、モンスーンが弱まったことによる気候の乾燥、インダス川の東を流れていた大河の流路の変化や涸渇、メソポタミアとの交易の衰えなどである。一つの原因ではなく、いくつもの変化が重なったと見る研究者が多い。詳しくはインダス文明の衰退で扱っている。
インダス文明の後、北インドでヴェーダの成立の文化が育つが、両者がどうつながるのかもまだはっきりしない。ただ、牛を尊ぶ習慣、沐浴を重んじる考え、ヨーガの座法に似た姿の人物を刻んだ印章など、のちのインドの文化との連続を思わせる手がかりはいくつもある。文字が読めるようになれば、この文明の姿は大きく塗り替えられるだろうが、その日がいつ来るのかは誰にも分からない。