ジェンネ=ジェノの都市
概要
王宮も神殿も見つかっていないのに、数千人が住み、9世紀ごろには周囲2キロの城壁で囲まれた。都市には王が要る、という前提を揺さぶる遺跡。
場所
13.91°N -4.55°E · マリ・モプティ州
本文
ニジェール川は、西アフリカの内陸で大きく曲がる途中、平らな土地に広がって網の目のような水路と沼地を作る。内陸デルタと呼ばれるこの低地は、雨季には水に浸かり、水が引くと肥えた泥が残る。魚が獲れ、稲が育ち、牛を放せる。サハラの南の縁にあって、砂漠と森の産物が出会う場所でもあった。
その中に、ジェンネ=ジェノの遺跡がある。いまのジェンネの町から3キロほど離れた、高さ数メートルの土の丘である。1977年と1981年に、アメリカの考古学者スーザンとロデリックのマッキントッシュ夫妻がここを掘った。
分かったのは、人が住み始めたのが紀元前250年ごろだということだった。最初は小さな村だったが、紀元後の数世紀のうちに大きくなり、9世紀ごろには丘の広さが30ヘクタールを超えた。周りの数キロの範囲にも数十の集落が点在し、合わせて数千から1万を超える人が住んでいたと推計されている。最も古い層は、いまの地面より数メートルも下にある。人々は土の家を建てては崩し、その上にまた建てることを千年以上くり返し、そのたびに丘は高くなっていった。
それまで、西アフリカの都市は北アフリカのアラブ商人がサハラ交易とともに持ち込んだもの、と考えられてきた。だがジェンネ=ジェノは、アラブ商人が来るよりはるか前から、自分たちで大きくなっていた。この発見は、アフリカの都市の歴史を書き換えるものになった。

町は遠くとつながっていた。内陸デルタには鉄の鉱石も石も無いのに、早い時期から鉄の道具が使われていた。材料は数十キロ以上離れた土地から運ばれてきたことになる。後の時代の層からは、サハラ産とみられる銅や、遠くから来たガラスの玉も出ている。米は、アフリカで栽培化された稲が早くから作られていた。
鉄を作る技は、西アフリカでは紀元前1千年紀から広がっていた(ノク文化の製鉄)。ジェンネ=ジェノの人々も、川の上流や周りの土地とのつながりの中で鉄を手に入れ、使っていた。のちにこの一帯の北ではガーナ王国の金と塩の交易が栄え、さらにマリ帝国の成立へと続くが、ジェンネ=ジェノはそれより何百年も早く、交易の結び目として育っていた。

出てこないものがある。王宮が無い。神殿も見つかっていない。墓の副葬品の差も小さく、際立った支配者の存在を示すものが乏しい。土の城壁は9世紀ごろになって築かれたとされるが、それは町が大きくなってからのことで、町の成り立ちを説明するものではない。
町の作りも独特だった。一つの大きな中心があるのではなく、小さな集落が寄り集まった形をしている。鍛冶、陶工、漁民、農民が、それぞれのまとまりで住み、互いに品物とわざを交換していたとみられる。鍛冶は特別な力を持つ者として畏れられ、他の集団と少し離れて住む。そうした慣習は、いまの西アフリカにも残っている。

マッキントッシュ夫妻は、上から命令する権力が無くても、専門を持った集団が互いに頼り合うことで都市が成り立ちうる、と考えた。上下の序列ではなく横のつながりでできた社会という見方は、都市の始まりには王と神殿が要るという常識を揺さぶった。
町は11世紀ごろから衰え、1400年ごろまでに捨てられた。人々は近くのジェンネへ移ったとみられる。ジェンネは13世紀ごろにイスラームを受け入れ、のちソンガイの時代(ソンガイ帝国の最盛期)にかけて、トンブクトゥと並ぶ交易と学問の町になった。

遺跡からは素焼きの人物像が多く出土する。1970年代から80年代にかけて美術品の市場で値がつき、盗掘が相次いで、多くの遺跡が掘り荒らされた。どの層から出たかが分からなくなった像は、もう何も語らない。ジェンネ=ジェノは1988年、旧市街とともに世界遺産に登録された。