できごと

リスボン大地震

1755 Lisbon earthquake
AD1755年11月1日
重要度 4
リスボン大地震に関わる図版:1755 Lisbon Earthquake Location
1755 Lisbon Earthquake Location Wikimedia Commons USGS · Public domain

概要

諸聖人の日に都市が崩れた。なぜ神は善人を見捨てたのかという問いが、啓蒙思想を押し進める。

場所

リスボン(1755年)
38.71°N -9.14°E · ポルトガル

本文

18世紀半ばのリスボンは、ヨーロッパでも指折りの豊かな都だった。ブラジルの金とダイヤモンドがテージョ川の港に流れ込み、人口はおよそ20万。テージョ川に面した王宮には、大航海時代以来の記録や地図、7万冊ともいわれる蔵書が収められ、半年前には豪華なオペラ劇場が開いたばかりだった。ポルトガルはまた、異端審問が力を保つ、篤いカトリックの国でもあった。

1755年11月1日の朝、9時半を過ぎたころ、地面が揺れ始めた。その日は、すべての聖人を祝う諸聖人の日で、町じゅうの教会がミサに集まった人びとで埋まっていた。揺れは数分おきに三度襲い、合わせて10分ほど続いたと伝えられる。震源は大西洋の海底、ポルトガルの南西沖とみられ、規模はマグニチュード8.5から9に達したと推定されている。石造りの教会の天井や塔が崩れ落ち、祈りを捧げていた人びとを押しつぶした。地面には裂け目が走り、建物の多くが瓦礫になった。

炎上するリスボンと港の船を襲う津波を描いた1755年の銅版画
炎上するリスボンと港の船を襲う津波を描いた1755年の銅版画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

生き残った人びとは、崩れる建物を逃れて、川沿いの広場や港の岸辺へ殺到した。そこへ、地震から40分ほど後、川を遡って津波が押し寄せた。高さは数メートルに及び、岸辺に集まった人びとと船を飲み込んだ。高台の地区では、倒れた教会の祭壇のろうそくや家々のかまどから火が出た。火は風にあおられて燃え広がり、5日にわたって町を焼き尽くした。王宮もオペラ劇場も、記録も絵画も、炎の中に消えた。

死者の数は、リスボンだけで3万から5万とする推計が多い。津波はスペイン南部やモロッコの海岸も襲い、遠くイギリスやカリブ海でも海面の異常が記録された。国王ジョゼ1世とその家族は、たまたま郊外にいて難を逃れた。だが王はこれ以降、石の建物の中で眠ることを恐れ、長く天幕の宮殿で暮らしたと伝えられる。

リスボン地震での津波の到達時間 (計算による推定値)
リスボン地震での津波の到達時間 (計算による推定値)Wikimedia Commons NOAA's National Geophysical Data Center (NGDC) · Public domain

国を立て直したのは、王の大臣カルヴァーリョ、のちのポンバル侯爵である。死者を葬り、生きている者を養え、という言葉が彼のものとして伝えられている。疫病を防ぐために遺体を船で沖へ運んで沈め、略奪する者を処刑し、食糧の値段を抑えた。焼け落ちた下町は、まっすぐな大通りが直角に交わる碁盤の目の町として造り直された。建物の壁の中には木を斜めに組んだ骨組みを入れ、揺れに強くした。兵士を模型の周りで行進させて揺れを起こし、強さを試したという話も残る。さらにポンバルは、全国の教区に質問票を送り、揺れはどれくらい続いたか、どの方角から来たか、井戸の水はどう変わったか、建物はどれだけ倒れたかを答えさせた。被害を科学的に調べようとしたこの試みは、近代の地震学の先駆けとされる。

一方で、この災害は、ヨーロッパの人びとの心を大きく揺さぶった。なぜ神は、聖なる日に教会で祈っていた人びとの上に天井を落としたのか。一部の聖職者は、これを罪深い都への神の罰だと説いた。そのころヨーロッパの知識人のあいだでは、神が創った世界は可能な世界の中で最善のものであり、あらゆる悪にも意味がある、というゴットフリート・ライプニッツに由来する楽観的な考えが広まっていた。

ヴォルテールは、この楽観論に真っ向から反発した。1756年に発表した詩で、母の胸に抱かれたまま押しつぶされた子どもたちが、どんな罪を犯したというのか、すべては善だという哲学者たちよ、この廃墟を見に来い、と問いかけた。この問いは3年後、どんな悲惨に遭っても「すべては最善」と言い続ける師を笑う小説に結実する(『カンディード』)。作中の主人公は、まさにリスボンの地震に遭遇している。

『カンディード』に関わる図版:Candide1759
『カンディード』Wikimedia Commons Voltaire · Public domain

これに異を唱えたのがジャン=ジャック・ルソーだった。彼はヴォルテールへの手紙で、6階建て、7階建ての家を2万軒も密集させたのは自然ではなく人間だ、人びとがもっとまばらに住んでいれば被害はずっと小さかったはずだ、と書いた。災害の大きさを、神の意志でも自然の気まぐれでもなく、人間の暮らし方と社会の問題として考える視点である。若いイマヌエル・カントも地震の原因を論じる文章を次々に発表し、自然の出来事として説明しようとした。

リスボンの大地震は、天災を神の意志として受け入れる時代から、原因を調べ、備え、社会の側の責任を問う時代への、一つの転換点になった。ポンバルが再建した下町の町並みは、いまもリスボンの中心に残っている。

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