ピョートル1世
概要
自ら西欧で造船を学び、国を強引に作り替えた。沼地に新しい首都を建てる。
所属
ロシア帝国関わったできごと(2)
サンクトペテルブルクの建設AD1703年 · 当人ポルタヴァの戦いAD1709年7月8日 · 総指揮本文
1672年6月9日、モスクワで、ツァーリのアレクセイと二度目の妻ナタリヤのあいだに生まれた。父は4歳のときに死に、帝位は先妻の子の兄たちが継いだ。1682年、兄フョードルが死ぬと、10歳のピョートルはもう一人の異母兄イヴァンとともに二人並んでツァーリに立てられた。実権を握ったのは、異母姉ソフィアだった。

その年、モスクワの銃兵隊(ストレリツィ)が反乱を起こし、宮殿に押し入った。ピョートルの母の親族や後見人が、10歳の少年の目の前で槍にかけられて殺された。この記憶は、銃兵隊と古いモスクワへの憎しみとして、生涯残ったといわれる。
少年時代は、モスクワ郊外の村で母と暮らした。勉強より遊びが好きで、近所の子や召使いを集めて兵隊ごっこをした。この遊びの連隊が、のちに近衛連隊になる。物置で見つけたイギリス製の古い小舟を修理させて、川や湖で帆走を覚えた。海と船への執着は、ここから始まる。モスクワの外国人居住区に入りびたり、スイス人やスコットランド人の軍人と酒を飲み、西欧の技術と暮らしを知った。

1689年、姉ソフィアを修道院に押し込め、実権を取り戻した。1696年、黒海へ出る港アゾフを攻めて落とす。前年の攻撃に失敗したあと、内陸の町で急いで艦隊を造らせ、川を下って海から包囲したのである。
身長が2メートルを超えていたと伝わる。1697年から翌年にかけて、250人ほどの大使節団を西欧へ送り、自らも身分を隠して加わった。オランダの造船所で、実際に働いて技術を学んでいる。「ピョートル・ミハイロフ」という偽名を使った。背が高すぎて、すぐ分かったという。アムステルダムの東インド会社の造船所で4か月ほど働き、イギリスでも造船を学んだ。病院、工場、印刷所、解剖の講義まで見て回っている。

旅の途中、銃兵隊がまた反乱を起こしたとの知らせを受けて急ぎ帰国した。反乱はすでに鎮められていたが、ピョートルは改めて大がかりな取り調べを命じ、千人を超える銃兵を処刑した。自ら処刑に手を下したという同時代の証言もある。
帰国して、国を作り替えた。貴族の髭を剃らせた。帰国の翌日、出迎えた貴族たちの髭を自ら鋏で切ったと伝えられる。残したい者には税を課し、払った証の銅の札を持たせた。服装を西欧風に改めさせた。1700年からは、世界の創造から数えていた年の数え方をやめ、キリストの生誕から数える年と、1月1日の新年を採り入れている。ただし、西欧の多くの国で使われていたグレゴリオ暦には改めなかった。

同じ1700年、スウェーデンとの大北方戦争が始まる。最初のナルヴァの戦いで、若いスウェーデン王カール12世に大敗した。ピョートルは教会の鐘を溶かして大砲を造らせたと伝えられ、軍を西欧式に作り直した。農民から兵を取り、常備軍と海軍を作った。
1703年、スウェーデンから奪ったネヴァ川の河口の沼地に要塞を築き、町を造りはじめた。サンクトペテルブルクの建設である。湿地に杭を打ち、各地から農民や捕虜を駆り出して働かせた。病気と過酷な労働で多くの人が死んだ。貴族や商人には移住が命じられ、町はやがて首都となる。沼地に新しい首都を築いたこの町を、ピョートルは「西欧への窓」と考えた。
1709年、ウクライナのポルタヴァの戦いで、カール12世の軍を破った。カール12世はオスマン帝国へ逃れる。1721年の講和で、ロシアはバルト海の東岸の土地を得た。北方戦争でスウェーデンに勝ち、バルト海への出口を得る。この年、元老院はピョートルに「皇帝」と「大帝」の称号を贈り、国はロシア帝国と呼ばれる帝国になった。

改革は国の仕組みの全体に及んだ。元老院と、分野ごとの役所を作り、教会の長である総主教の座を廃して、国が監督する宗務院を置いた。1722年の官等表は、軍・文官・宮廷の役職を14の等級に分け、家柄ではなく勤めによって等級を上がれるようにした。貴族には国家への勤めが義務とされた。科学アカデミーの設立も決め、珍しい標本を集めた博物館を開いた。
服や髭だけでなく、暮らしの作法も変えさせた。貴族の家に人を集める夜会を開かせ、女性がそこへ出ることを義務づけた。それまで上流の女性は家の奥に隔てられていたのである。

やり方は強引だった。財源のため、男子一人ごとに税をかける人頭税を導入し、農民は土地と領主にいっそう強く縛られた。反対した息子アレクセイは、父の改革を嫌って外国へ逃げたが、連れ戻されて裁かれ、拷問にかけられ、その拷問中に死なせている。1718年のことである。
1722年、皇帝が自分で後継者を指名するという法を定めたが、自身は指名しないまま、1725年2月に病で死んだ。52歳。後を継いだのは、リヴォニアの農民の娘から皇后になった妻エカチェリーナだった。
改革は残った。死の直前には、ベーリングに、アジアとアメリカが陸でつながっているかを確かめる探検を命じている。のちにエカチェリーナ2世は、海の方を指して馬で岩に乗るピョートルの銅像をペテルブルクに建てた。西欧に学んで国を強くした君主として仰がれる一方、その強引さが、上から押しつける改革というロシアの型を作ったとも言われる。