テオティワカンの隆盛
概要
人口10万を超え、同時代のローマと並ぶ規模だった。誰が建てたのか、どの言語を話したのかも分かっていない。
場所
19.69°N -98.84°E · メキシコ
本文
メキシコ市の北東、50キロほどの高原に、巨大なピラミッドの並ぶ廃墟がある。紀元1世紀から6世紀にかけて栄えた都市テオティワカンである。最盛期の人口は10万から20万と見積もられ、同じ時代の世界でも最大級の都市の一つだった。それほどの町を築いた人々が、自分たちを何と呼び、どんな言葉を話していたのかは、分かっていない。
メキシコ湾岸でオルメカ文明が栄えてから数百年後、町が大きくなり始めたのは、紀元前1世紀ごろとされる。メキシコ盆地には、ほかにも大きな集落があったが、その一つクィクィルコは近くの火山の噴火で溶岩に覆われ、衰えた。そこから逃れた人々がテオティワカンに移り住んだ、という説がある。テオティワカンの近くでは、刃物の材料になる黒曜石が採れた。ガラスのように鋭く割れるこの石は、金属の道具を持たない人々にとって最も大事な資源で、それを掘り、加工し、遠くまで運ぶことが、町の富の源になったと考えられている。

町の中心を、南北に4キロ近い大路が貫いている。のちにアステカの人々が、両側に並ぶ建物の土台を墓だと思って「死者の大通り」と呼んだ。大路は真北から東へ15度あまり傾いていて、町全体の道や建物が、この向きにそろえて碁盤の目に区切られた。川の流れまで、この格子に合わせて付け替えられている。これほど大きな町を一つの設計図で作り上げたことが、この都市の最大の特徴である。
大路の東に、太陽のピラミッドが立つ。底辺の一辺が220メートルを超え、高さは60メートルを超える。2世紀ごろまでに大きく築き上げられた。1971年には、その真下に、人の手で整えられた洞窟が見つかっている。地下の世界への入口として、ここが神聖な場所とされ、その上にピラミッドが建てられたのではないかと考えられている。大路の北の端には月のピラミッドがあり、何度も外側を覆うようにして拡大された。その内部からは、生贄にされた人や動物の埋葬が見つかった。

大路の南には、羽毛の生えた蛇の頭の彫刻で飾られた神殿がある。3世紀の初めごろに建てられ、建設の際に200人ほどが生贄として捧げられたことが、発掘で分かっている。2003年には、この神殿の下へ向かう長いトンネルが見つかり、十数年かけた発掘で、大量の奉納品が掘り出された。この町の宗教と権力が、多くの命を捧げる儀式と結びついていたことがうかがえる。
町に住む人々の多くは、高い壁で囲まれた集合住宅で暮らしていた。中庭を囲んで部屋が並び、数十人から百人ほどが住む。こうした住宅が町の中に2000ほどあり、その部屋の壁には、神々や動物、植物、儀式の様子を描いた鮮やかな壁画が数多く残っている。町の一角には、遠く南のオアハカから来た人々が自分たちの葬り方を守って暮らした地区があり、別の一角からはメキシコ湾岸やマヤの土地の土器が多く出る。テオティワカンは、各地から人と物が集まる国際的な都市でもあった。

それなのに、分かっていないことが多い。誰が建てたのか。どの言語を話したのか。王は誰だったのか。壁画や土器には記号のような図柄が描かれているが、それが言葉を書き表す文字なのかどうかも、はっきりしない。マヤの都市なら碑文に王の名前と事績が刻まれているが、テオティワカンでは、王の墓も、王の像も、王の名を記した碑文も、確かなものは見つかっていない。権力を一人の王が握っていたのではなく、有力な家々が合議で治めていたのではないか、という説もある。
町の影響は、遠くまで及んでいた。テオティワカン風の土器や建築の様式は、メキシコ各地からグアテマラにまで見られる。マヤの低地の大都市ティカルの碑文には、378年に、テオティワカンから来たとみられる「火が生まれる」という名の人物が到着し、同じ日にティカルの王が死に、まもなく新しい王が立った、と記されている(マヤ古典期)。新しい王の父は、テオティワカンの支配者だったとする解釈がある。武力による介入だったのか、どこまでテオティワカンが支配したのかについては議論があるが、マヤの王たちはその後も長く、テオティワカン風の戦士の装いをして自らの権威を示した。
6世紀ごろ、町は衰えに向かう。中心部の神殿や、大路沿いの身分の高い人々の建物が、焼かれて壊された。焼け跡は町の中心部に集中しており、外から攻め込んだ敵ではなく、町の内部の人々が支配層に対して反乱を起こしたのではないか、という見方がある。干ばつや食料の不足が背景にあったとも言われる。だが、外からの侵入か、内部の反乱かも、確かには分かっていない。焼かれた後も人々は住み続けたが、大都市としての姿は戻らなかった。
数百年後、メキシコ盆地に湖上の都を築いたアステカの人々は(テノチティトランの建設)、この廃墟を訪れ、神々が世界を作った場所として崇めた。テオティワカンという名前も、彼らの言葉で「神々の生まれた場所」を意味する。アステカの神話では、世界がまだ暗かったとき、神々がここに集まり、一柱の神が自ら火に飛び込んで太陽になったという。アステカの人々は、この廃墟から掘り出した仮面などを、自分たちの都の大神殿に納めてもいる。

アステカにとってすら、テオティワカンはすでに遠い過去の謎の都だった。本当の名前も、建てた人々の言葉も失われ、後の人々が付けた名前で呼ばれ続けている。それでも、碁盤の目に並ぶ町の跡と、空に向かって積み上げられた巨大なピラミッドは、文字に頼らずとも、ここに大きな力と秩序を持った社会があったことを、いまもはっきりと伝えている。