ゲオルギー・ガポン
概要
ウクライナの農民の子、正教の司祭。警察の後援で「ロシア工場労働者会」を作った(労働運動を政府の管理下に置く「警察社会主義」)。1905年1月、自分の組織で請願行進を率いて、撃たれ、逃げ、ヨーロッパへ。革命の英雄になり、帰って、秘密警察との関係が発覚し、社会革命党に別荘で絞殺された。
所属
ロシア帝国関わったできごと(1)
血の日曜日事件AD1905年1月22日 · 率いた本文
ゲオルギー・ガポンは、1870年2月、ロシア帝国のポルタヴァ県(いまのウクライナ)の村ベリキで、農民の家に生まれた。母は字が読めなかったが、聖人たちの伝記をそらで語って聞かせたという。信心深い少年は、ポルタヴァの神学校に進み、そこでレフ・トルストイの著作に触れて、教会の儀式よりも、貧しい人々の中で生きるキリスト教に心を惹かれた。司祭となって結婚したが、若い妻を早くに病で亡くした。悲しみの中で、彼は1898年、首都サンクトペテルブルクの神学大学に入った。

首都の工場地帯には、地方の農村から出てきた労働者があふれていた。長い労働時間、安い賃金、狭く不潔な住まい。ガポンは、孤児院や貧しい人々の施設、刑務所で説教をするうちに、労働者たちの間で人気を集めていった。背は低いが黒い目が印象的で、何より声と話しぶりに人を引きつける力があった。
そのころ、ロシアの政府の中には、労働者を革命家から引き離すために、警察が後ろ盾となって合法の労働者の団体を作らせようという考えがあった。モスクワの秘密警察の長ズバートフが始めたこのやり方は、「警察社会主義」と呼ばれた。ガポンはこの流れの中で警察の幹部と結びつき、その許しと資金を得て、1904年、「ペテルブルク市ロシア工場労働者の会」を立ち上げた。会は政治を語らず、労働者に茶と講演と互いの助け合いの場を与える、穏やかな集まりのはずだった。だが会はまたたく間に大きくなり、1904年の末には市内に11の支部を持ち、会員は1万人近くに達した。労働者たちは彼を「父さん」と呼んで慕い、革命家たちは警察の手先だと疑った。警察の金で作った組織は、しだいにガポン自身の、そして労働者自身の組織に変わっていった。
1904年、ロシアは日本と戦っていた(日露戦争)。戦況は悪く、物価は上がり、人々の不満は高まっていた。12月、首都の大きな工場で、会の会員4人が解雇された。翌1905年1月、これに抗議するストライキが始まると、たちまち市内の工場に広がり、十数万人が仕事を止めた。ガポンは、皇帝ニコライ2世に直接、労働者の願いを訴えることを決めた。請願書には、8時間の労働、公正な賃金といった要求に加え、国民の代表による議会を開くこと、言論と集会の自由、戦争をやめることまでが書き込まれた。

1月9日の日曜日、労働者とその家族は、市内の各地から、宮殿前の広場を目指して歩き始めた。人々は晴れ着を着て、教会の旗やイコン、皇帝の肖像を掲げ、祈りの歌を歌っていた。ガポンは、ナルヴァ門の方面から進む行列の先頭に立った。だが皇帝は首都におらず、町の要所には軍隊が配置されていた。兵士たちは、行列に向けて発砲した(血の日曜日事件)。ガポンのそばにいた人々も撃たれて倒れた。ガポンは倒れた人々の下に伏せて命拾いし、社会革命党の活動家ルーテンベルクに助けられて、長い髪とひげを切り落として姿を変え、作家ゴーリキーの家にかくまわれた。この日、市内全体で、少なくとも百数十人、一説には千人を超える人々が殺された。
その夜、ガポンは労働者に向けて檄文を書いた。もはや我々に皇帝はいない、皇帝と民の間に、罪の無い血の川が流れた、と。皇帝を慈父と仰いでいた民衆の信仰は、この日を境に崩れた。ストライキと暴動は全国に広がり、1905年の革命が始まった。戦争に敗れ、内からも揺さぶられた皇帝は、10月、国民に市民的自由と選挙による議会を約束する詔書を出すことになる。
ガポンは国外に逃れ、ジュネーヴやロンドン、パリで、革命の英雄として迎えられた。亡命していたレーニンやプレハーノフとも会い、社会革命党にも近づいた。回想録を書き、集まった金で、革命派のための武器をロシアに送る計画にも関わったとされる。日本の陸軍がひそかに資金を出したこの武器の輸送は、船がフィンランドの沖で座礁して失敗に終わった。だが、革命家たちの多くは、もともと警察と結びついていた司祭を信用しきれなかった。
10月の詔書のあと、ガポンは恩赦を受けてロシアに戻った。彼は労働者の会を立て直そうとし、その許しを得るために、再び政府や警察と接触した。警察から金を受け取り、革命派の動きを知らせる役を引き受けようとしたとも言われる。ガポンが本当に警察の手先になったのか、警察を利用しようとしていただけなのかは、はっきりしない。だが社会革命党は、彼を裏切り者と判断した。
1906年3月、ガポンは、かつて血の日曜日に自分の命を救ったルーテンベルクに呼び出され、首都の北のフィンランドとの境に近い保養地オゼルキの貸し別荘に向かった。ガポンはそこで、党の内情を警察に売ろうとルーテンベルクを誘ったとされる。隣の部屋では、労働者たちがその話を聞いていた。彼らは飛び出してガポンを取り押さえ、縄で絞め殺した。遺体が見つかったのは1か月ほどあとのことだった。36歳だった。ルーテンベルクはのちにロシアを離れ、パレスティナに渡って電力の会社を興している。
警察の協力者であり、労働者の指導者であり、革命の英雄であり、裏切り者として殺された。ガポンの生涯は、矛盾に満ちている。だが、彼が率いた1月9日の行進が、皇帝と民衆の間の絆を断ち切ったことは確かだった。それから12年後の1917年、ロシアの帝政はロシア革命によって倒れる。ガポンの葬儀には、多くの労働者が集まった。彼らにとってガポンは、あの日曜日、自分たちを先頭に立って外へ連れ出した司祭だった。