概要
ウクライナの農民の子、正教の司祭。警察の後援で「ロシア工場労働者会」を作った(労働運動を政府の管理下に置く「警察社会主義」)。1905年1月、自分の組織で請願行進を率いて、撃たれ、逃げ、ヨーロッパへ。革命の英雄になり、帰って、秘密警察との関係が発覚し、社会革命党に別荘で絞殺された。
所属
ロシア帝国関わったできごと(1)
血の日曜日事件AD1905年1月22日 · 率いた本文
1870年2月17日、ポルタヴァ県ベリキ(ウクライナ)の農民の家。母は文字が読めず、聖人伝を暗誦して子に語った。神学校(ポルタヴァ)。トルストイを読んだ。妻を早く失った(1898年)。1898年、ペテルブルクの神学大学。貧民街と刑務所で働いた。演説がうまかった。声。
1902年、警察の「労働運動を管理する」政策(ズバートフの「警察社会主義」)に触れた。1903年、内務省の許可で「ロシア工場労働者会」を作った。合法の、政治を語らない、互助と教育の会。茶と、講演と、貯蓄。1904年末、ペテルブルクの支部11、会員1万人以上(家族を含めて数万)。ガポンは、警察の金と許可で作った組織を、自分の道具に変えていった。革命家は「警察のスパイ」と嫌い、労働者は「バーチュシカ(お父さん)」と呼んだ。
1904年12月、プチロフ工場の解雇。1905年1月、ストライキ。請願書。ガポンは、宗教的な行進の形を選んだ。「皇帝の前に、労働者が、家族と、イコンと共に立つ。皇帝が我々を受け入れなければ、我々には皇帝がいない」。彼は、撃たれることも考えていた、と後で書いた。
1月9日。ナルヴァ門で、彼の列の先頭が撃たれた。彼は倒れた人の下に伏せて、生き延びた。社会革命党のルーテンベルクが助けて、髪と髭を切って、逃がした。
その夜の檄。「兄弟である労働者よ。……我々にはもう皇帝はいない。今日、彼と、ロシアの民の間に、無辜の血が流れた。労働者よ、我々自身の手で、我々の自由を勝ち取る時が来た」。
ヨーロッパへ。ジュネーヴ、ロンドン、パリ。革命の英雄として迎えられた。レーニン、プレハーノフ、社会革命党。金を集めて、日本の明石元二郎の工作にも触れた武器輸送(ジョン・グラフトン号、1905年、フィンランド沖で座礁)に関わった。
1905年10月の詔書のあと、恩赦で帰国した。工場労働者会を再建しようとした。警察(内務省のラチコフスキー)から金を受け取った。社会革命党を裏切って、党の計画を警察に売ろうとした、と党は判断した。
1906年4月10日(旧暦3月28日)、フィンランド国境近くのオゼルキの貸別荘。ルーテンベルク(血の日曜日に彼を助けた男)が呼び出した。隣の部屋に労働者3人が隠れて、会話を聞いた。ガポンが、警察への協力を持ちかけた。3人が出てきて、絞め殺した。遺体は1か月後に見つかった。36歳。
葬儀に労働者が来た。「彼は、我々を、あの日、外へ連れ出した」。