チチェン・イッツァの繁栄
概要
マヤ北部の中心。天文台とされる建物があり、春分と秋分に階段へ蛇の影が降りる。
場所
20.68°N -88.57°E · メキシコ・ユカタン州
本文
マヤの文明は、メキシコ南部からグアテマラ、ベリーズにかけての熱帯の低地で、3世紀から9世紀にかけて最も栄えた(マヤ古典期)。ティカルやカラクムルのような都市国家が、石の神殿を建て、王の事績を文字で刻み、互いに争った。ところが9世紀から10世紀にかけて、南部の低地の都市は次々と人を失い、密林に呑まれていく(マヤ低地の崩壊)。その頃、北のユカタン半島では、逆に新しい都市が力を伸ばしていた。チチェン・イッツァは、その中で最も大きな中心になった。
ユカタン半島の北部は、平らな石灰岩の台地で、川がほとんど無い。雨水は地面にしみこみ、地下を流れる。ところどころで地面が陥没し、地下の水が顔を出した泉がある。マヤの言葉でゾノット、今はセノーテと呼ばれる。チチェン・イッツァという名は「イッツァの人々の井戸の口」を意味するとされ、町の成り立ちが水場と結びついていたことを示している。

町は9世紀ごろから大きくなり、10世紀から11世紀にかけて、ユカタン北部の広い範囲に影響を及ぼした。その中心にそびえるのが、エル・カスティーヨと呼ばれるピラミッドで、羽毛の蛇の神ククルカンを祀る神殿とされる。高さは約30メートル、四つの面にそれぞれ91段の階段があり、頂上の神殿の一段を加えると365段になる。一年の日数である。春分と秋分の日の午後には、北の階段の側面に、ピラミッドの段の影が三角形の連なりとなって落ち、階段の下の蛇の頭の彫刻とつながって、蛇が身をくねらせて降りてくるように見える。今では毎年、この光景を見ようと大勢の人が集まる。ただし、この効果を作り手が意図して設計したのかどうかについては、研究者の意見が分かれている。
20世紀の調査で、このピラミッドの内部にもう一つ古いピラミッドが埋まっていることが分かった。内部の神殿からは、仰向けに寝て腹の上に皿を抱えたチャクモールという石像と、ひすいをはめ込んだ赤いジャガーの玉座が見つかっている。
ほかにも、町には大きな建物が並ぶ。カラコルと呼ばれる円い塔は、上部の窓が金星の動きや季節の節目に合う方向を向いているとして、天文台だったと考えられている。球戯場は長さが160メートルを超え、メソアメリカで知られている中で最大である。壁の浮き彫りには、球戯の選手が首を切られ、そこから血が蛇となってほとばしる場面が刻まれている。「戦士の神殿」の前には、何百本もの石の柱が並ぶ。人の頭蓋骨を串刺しにして並べた台を写した石の壇もある。
チチェン・イッツァの建物や彫刻には、それまでのマヤには見られない要素が多く混じっている。羽毛の蛇の図像、チャクモール像、列柱の広間、戦士の姿などは、メキシコ中央高原のトゥーラ(トルテカのトゥーラ)とよく似ている。このため、かつては中央メキシコのトルテカ人がユカタンに侵入して町を支配したと考えられていた。トゥーラを追われたケツァルコアトルという王が東へ去ったという伝説も、この説を支えた。しかし今では、交易と交流を通じて両方の地域が影響し合ったとみる研究者が多く、どちらがどちらに影響したのかについても議論がある。
町の北には、聖なるセノーテと呼ばれる大きな泉がある。直径は60メートルほどで、水面まで20メートル以上の切り立った崖に囲まれている。16世紀にスペインの修道士ランダは、干ばつのときなどにここへ人や財宝が投げ込まれたと書き残した。20世紀の初め、アメリカ人のトンプソンが泉の底をさらい、多くの人骨とともに、金や銅の飾り、ひすい、香の塊、木の道具を引き上げた。人骨には子どもも多く含まれていた。金の品の中には遠くパナマやコロンビアのあたりから来たものもあり、この泉が広い範囲から巡礼を集めていたことを物語っている。
11世紀から12世紀ごろ、チチェン・イッツァは中心としての力を失い、ユカタン北部の主導権は西のマヤパンへ移った。衰えた理由は分かっていない。それでも聖なるセノーテへの巡礼は続き、16世紀にスペイン人がユカタンに来たときにも、ここは信仰の場として知られていた。

チチェン・イッツァは1988年に世界遺産に登録され、今ではメキシコで最も多くの観光客が訪れる遺跡の一つになっている。マヤ文字の解読が進んだことで(マヤ文字の解読)、町の碑文に刻まれた人名や年代も少しずつ読めるようになってきた。南の低地の崩壊のあとに北で花開いたこの町は、マヤの文明が一度に滅んだのではなく、場所を変えて続いていたことを示している。