アレクサンドリア建設
概要
ナイル・デルタの西端に築かれ、後に地中海世界最大の学術都市になる。
場所
31.20°N 29.92°E · エジプト
関わった人(1)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 建設本文
紀元前332年の秋、アレクサンドロス3世はペルシアの支配下にあったエジプトに入った。エジプトの人々は、ペルシアの支配を嫌っており、ほとんど戦うことなくアレクサンドロスを迎え入れた。王は古都メンフィスでエジプトの神々に犠牲を捧げ、ナイル川を下って河口へ向かった。地中海の沿岸に、新しい町を築く場所を探すためだった。
ナイル・デルタの西端に築かれた。目の前の海にはファロス島が横たわり、その陰に船を守る天然の港ができる。背後には大きな湖があり、運河でナイル川とつながっていた。地中海の船とナイルの船が、ここで荷を積み替えられる。港に適した地形と、ナイルの氾濫の影響を受けない位置が選ばれている。ナイルが運ぶ泥は東へ流れるため、西の端の港は泥で埋まりにくいという利点もあった。建設は紀元前331年の初めごろに始まったとされる。

設計はロドス島出身の建築家ディノクラテスに任されたと伝えられる。町は碁盤の目のような街路で区切られ、大通りは海からの涼しい風が通るように向きを決めたという。のちにファロス島とのあいだには、長さ1キロあまりの堤が築かれ、その両側が二つの港になった。
大麦の粉で市街の線を引いたところ、鳥が食べてしまった。町の区画を示すのに使う白い土が足りず、兵士の食糧の大麦の粉を代わりに撒いたのだという。不吉な兆しかと思われたが、占い師が「この街は多くの人を養い、世界を養う」と読んだ、という話が伝わる。プルタルコスらが書き残した話である。

本人は、着工を見ただけで東へ発った。リビア砂漠のシワのオアシスにあるアモン神の神託所を訪れたあと、ペルシア王ダレイオスとの決戦に向かった。完成した街を見ていない。その後8年、王は東の果てまで戦い続け、二度とエジプトに戻ることはなかった(アレクサンドロスの東方遠征)。
紀元前323年、王はバビロンで死んだ。その遺体は、エジプトを治めていた将軍プトレマイオス1世によって奪われるようにしてエジプトへ運ばれ、のちにこの街に葬られた(アレクサンドロスの死)。建設者の墓は町の誇りとなり、ローマの初代皇帝アウグストゥスも訪れている。その墓の場所は、いまも分かっていない。

プトレマイオスは王を名乗り、プトレマイオス朝を開いた。都はアレクサンドリアに置かれた。プトレマイオス朝のもとで、図書館とムセイオンが置かれた。ムセイオンは学芸の女神たちを祀る場所という意味で、英語の「ミュージアム」の語源になっている。王家に養われた学者たちが、ここで研究と議論に打ち込んだ。アレクサンドリアの図書館には、数十万巻ともいわれる巻物が集められた。港に入った船が積んでいた書物を取り上げて写しを作り、写しのほうを持ち主に返した、という話も伝わる。ユダヤ教の聖書がギリシア語に訳されたのも、この町だったとされる。
エラトステネス、エウクレイデス、アルキメデス。地中海世界の学問がここに集まる。エラトステネスは、夏至の日の正午に、南のシエネでは太陽が真上に来るのに、アレクサンドリアでは影ができることから、地球の周囲の長さを驚くほど正確に求めた。エウクレイデスはここで幾何学をまとめた『原論』を書いた。シチリアのアルキメデスも、若いころここで学んだと伝えられる。人体を解剖して神経や血管の働きを調べた医師たちもいた。

港の入口のファロス島には、高さ100メートルを超えたともいわれる巨大な灯台が建てられた(ファロスの灯台)。古代の七不思議の一つに数えられ、のちのヨーロッパのいくつもの言語で「ファロス」が灯台を意味する言葉になった。灯台は中世の地震で崩れ、跡地には15世紀に要塞が築かれた。
アレクサンドリアは、ギリシア人、エジプト人、ユダヤ人、のちにはローマ人が住む、地中海で最大級の国際都市に育った。最盛期の人口は数十万人に達したと推定される。紀元前30年、最後の女王クレオパトラ7世が死に(クレオパトラの死)、エジプトはローマの属州になったが、アレクサンドリアはその後も、ローマに次ぐ帝国第二の都市として栄え、学問と交易の中心であり続けた。キリスト教が広まると、有力な教会の拠点の一つにもなった。

図書館がいつ、どのように失われたのかは、はっきりしない。紀元前48年、カエサルがこの町で戦ったときの火事で一部が焼けたとされ、その後も3世紀の内乱や、4世紀の末に異教の神殿が破壊された際に失われたと考えられている。7世紀にアラブの軍がこの町を征服したとき、カリフの命令で書物が焼かれたという話は、ずっと後に書かれたもので、作り話と見られている。一度の火事で消えたのではなく、長い時間をかけて衰えていったという見方が有力である。415年には、女性の数学者・哲学者ヒュパティアが、キリスト教徒の暴徒に殺されている(ヒュパティアの死)。
7世紀のアラブの征服のあと、エジプトの中心はナイル川をさかのぼった内陸のフスタート、のちのカイロに移り、アレクサンドリアはしだいに小さな港町になっていった。古代の町の多くは、地震と地盤の沈下で海の底に沈んだ。1990年代からは潜水による調査が進み、港の底から巨大な像や柱が引き揚げられている。

19世紀に港町として再び栄え、いまアレクサンドリアは人口500万を超えるエジプト第二の都市になっている。2002年には、古代の図書館をしのんで、巨大な新しい図書館が海辺に開館した。20を超える「アレクサンドリア」のうち、最も大きく栄え、その名を世界に残したのはこの街になる。