チャタル・ヒュユク
概要
道が無く、屋根の上を歩いて天井の穴から家に入る町。数千人が住んだが、王の家らしきものが見つからない。
場所
37.67°N 32.83°E · トルコ・コンヤ県
本文
トルコ中部、アナトリア高原のコンヤ平原に、高さ20メートルほどの二つの塚が並んでいる。チャタル・ヒュユクは「分かれ道の塚」という意味のトルコ語で、塚の正体は、同じ場所に何百年も家を建て直し続けた結果積み上がった、町の跡だった。人が住んだのは、おおよそ紀元前7100年ごろから紀元前6000年ごろまで。農耕が始まって間もない新石器時代の集落で、世界でも最も早く大勢の人が一か所に密集して住んだ例の一つとされる。
1958年に見つかり、1960年代にイギリスのジェームズ・メラートが発掘して世界を驚かせた。1993年からはイアン・ホッダーの率いる国際チームが、25年にわたって細かい調査を続けた。2012年には世界遺産に登録されている。
この町には道が無い。日干し煉瓦の家が壁を接してびっしり並び、家と家の間に通りも広場もほとんど無かった。人々は平らな屋根の上を歩いて移動し、天井に開けた穴から梯子で自分の家へ降りた。穴は出入り口であると同時に、炉の煙を出す煙突でもあった。屋根の上は、作業をしたり人と話したりする場所だったと考えられている。
住んだ人の数は数千人とされる。三千五百人から八千人ほどとする推定があり、幅は大きい。それだけの人がいながら、王宮らしき建物も、神殿らしき建物も見つからない。家の大きさや間取りにも、目立った差が無い。財産や権力が一部の家に集まった跡がほとんど見えないことから、この町は比較的平等な社会だったと考える研究者が多い。
家の中は、塗り直しを重ねた白い漆喰の壁で仕上げられていた。何十回も塗り重ねた跡が残る壁もある。壁には赤や黒で、牛や鹿を囲んで狩る人々、首の無い人に群がるハゲワシなどが描かれた。二つの峰を持つ山と家並みを描いた絵は、近くのハサン山の噴火を描いた世界最古の地図だとも言われるが、ただの文様だとする反論もあり、決着はついていない。壁や台には野生の牛の角や頭骨が塗り込められ、家によっては角が何本も並んでいる。
死者は家の床の下に埋められた。暮らしの場所の真下に、家族や近しい人が眠っていたことになる。家は古くなると壁の上の部分を壊し、中を埋め、同じ場所に同じような間取りで建て直された。同じ家を何代にもわたって受け継ぐことが大事にされたらしい。塚の高さは、この建て直しの積み重ねでできている。
人々は小麦や大麦、豆を育て、羊や山羊を飼い、野生の牛や鹿を狩った。道具には、東のカッパドキアの火山地帯から運んだ黒曜石を使った。鋭い刃になるこの火山ガラスは、遠くの集落との交換にも使われたとみられる。
豊満な体つきの女性の像が多く出土することから、メラートはここを地母神を崇める社会と考え、この説は広く知られた。だが近年の調査では、女性像ばかりでなく男性や性別の分からない像も多いことが分かり、根拠が薄いという批判が強い。近年は、ふくよかな像の一部が年配の女性を表したもので、女神ではなく社会の中で重んじられた人を写したのではないかという見方も出ている。
密集して住むことには代償もあった。家の近くにごみ捨て場があり、家畜もそばにいた。人骨の分析からは、虫歯や感染症の跡、成長期の栄養の偏りが見えてくる。頭骨には、投石などによるとみられる傷が少なからずあり、とくに人口が最も多かった時期に増えていた。人の多さが、争いや病をもたらした可能性がある。
終わりの時期には、家と家が少し離れて建つようになり、各家がそれぞれに自立していく様子が見える。やがて人々は塚を離れ、近くの別の場所へ移った。チャタル・ヒュユクは、少し前の時代のギョベクリ・テペやイェリコの壁と並んで、農耕の始まりとともに人が集まって暮らし始めた時代を示す遺跡だ。王も神殿も道も無い町は、都市とは何かという問いを、私たちに改めて投げかけている。