董卓の洛陽焼き討ち
概要
都を焼いて長安へ遷った。皇帝は名だけになり、各地の実力者が割拠しはじめる。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
董卓?–AD192年 · 当人本文
後漢の末、都の洛陽では、皇帝の母方の一族である外戚と、宮中に仕える宦官とが権力を争っていた。地方では黄巾の乱が起き、討伐のために各地の将軍や豪族が兵を持つことが認められた。中央の争いと地方の軍事力が、やがて結びつく。
中平6年(189年)、霊帝が死ぬと、外戚の大将軍何進は宦官を一掃しようとし、地方の将軍たちに兵を率いて都へ上るよう呼びかけた。涼州で異民族との戦いに慣れた軍を率いていた董卓は、これに応じた一人である。だが董卓が着く前に、何進は宦官たちに宮中で殺された。何進の部下だった袁紹らが宮中に攻め込み、宦官を2000人以上殺した。混乱の中、宦官に連れ出された14歳の少帝と9歳の弟の陳留王を、都の北の北邙山で迎えたのが董卓だった。

董卓は兵が少なかったため、夜のうちに兵をこっそり城外へ出し、翌朝あらためて入城させることを繰り返して、大軍に見せかけたと伝えられる。何進の軍を吸収し、都の警備を率いていた丁原を、その部下の呂布に殺させて兵を奪った。こうして都の兵力を握ると、董卓は少帝を廃して陳留王を皇帝に立てた。献帝である。廃された少帝は翌年、毒を盛られて死んだ。
董卓は相国となり、剣を帯びたまま宮殿に上がる特権を得た。気に入らない官僚を殺し、兵は洛陽の富裕な家を襲って財産と女性を奪ったと史書は書く。都を逃れた袁紹や曹操は東方で兵を集めた。初平元年(190年)の正月、関東の州や郡の長官たちが連合し、袁紹を盟主として董卓討伐の兵を挙げた。

董卓は洛陽で迎え撃たず、都を西の長安へ移すことにした。長安は前漢の都で、背後に自分の地盤の涼州を控え、守りやすい。反対した重臣は罷免された。同じ年の2月、董卓は献帝を長安へ送り出すと、洛陽の住民数百万を強制的に西へ移させた。兵に追い立てられ、飢えと略奪で道に倒れた者は数えきれなかったという。
そして董卓は、洛陽の宮殿、役所、民家に火を放った。城の周囲200里のうちには、建物も人も残らなかったと『後漢書』は記す。呂布に命じて歴代の皇帝や后妃の陵墓を掘らせ、副葬品を奪わせた。宮中の書庫も失われた。運び出された書物も多くは道中で散り、絹に書かれた文書は、引きはがされて天幕や袋にされたと伝えられる。光武帝が都と定めてから165年、学問の中心でもあった都がこうして消えた(後漢の成立)。

討伐の連合軍は、洛陽が焼かれてもほとんど動かなかった。諸将は互いに牽制し合い、酒宴を開いて日を送ったという。業を煮やした曹操は単独で西へ進み、汴水のほとりで董卓の部将に大敗して、自身も矢傷を負った。翌年、南から攻め上った孫堅が董卓の軍を破って洛陽に入り、荒らされた陵墓を修復している。孫堅がこのとき焼け跡の井戸から皇帝の玉璽を拾ったという話は、正史の注に引かれた別の記録に見えるもので、真偽は分からない。
小説の『三国志演義』では、この戦いで関羽が董卓の部将華雄を斬る場面が名高い。だが正史で華雄を討ったのは孫堅の軍で、関羽の話は小説の創作である。連合軍は董卓を倒す前に仲間割れを始め、やがて袁紹と曹操、袁術と孫堅というように、互いに戦うようになった。

長安で太師となった董卓は、郿に城塞を築き、30年分の穀物を蓄えたという。事が成れば天下を取り、成らなくてもここを守って一生を終える、と語ったと伝えられる。初平3年(192年)4月、司徒の王允が呂布を説き伏せ、宮殿に上がった董卓を呂布が刺し殺した。董卓と呂布の仲は、侍女をめぐる一件などで既にこじれていたとされる。董卓の遺体は市にさらされ、太った腹のへそに灯心を立てて火をつけると、数日のあいだ燃え続けたという話が残る。
だが秩序は戻らなかった。董卓の部将の李傕と郭汜が長安を攻め落とし、王允を殺し、呂布は逃げた(呂布の死)。李傕と郭汜もやがて仲違いし、長安は彼らの争いで荒れ果てた。献帝は196年、命からがら焼け跡の洛陽へ戻ったが、宮殿はなく、官僚たちは自ら薪を拾い、飢え死にする者まで出たという。
その献帝を迎えて許に移したのが曹操だった。皇帝を手もとに置き、その名で号令して従わない者を討つ。漢の皇帝は以後も24年あまり位にあったが、実権は曹操の手に移り、最後は曹丕の即位(漢の滅亡)で位を譲ることになる。洛陽が焼けた190年は、漢の皇帝が名前だけの存在になり、実力者たちが割拠する時代の始まりの年として記憶されている(三国の鼎立)。