サン・ドニ修道院とゴシックの始まり
概要
壁を細くして光を入れる建て方が生まれた。以後200年、ヨーロッパ中で天井が高くなっていく。
場所
48.94°N 2.36°E · フランス・パリ北郊
本文
パリの北にあるサン・ドニ修道院は、フランス王家にとって特別な場所だった。パリの最初の司教で殉教した聖ドニの墓の上に建てられ、歴代の王の多くがここに葬られた。王の旗もここに納められ、戦のたびに持ち出された。
12世紀前半、この修道院の長を務めたのがシュジェールである。身分の低い家に生まれ、子どものころ修道院に預けられて、そこで学んだ。同じ修道院の学校で、のちの国王ルイ6世と机を並べたとされる。1122年に修道院長となり、ルイ6世とその子ルイ7世に仕えて、政治の助言者としても重きをなした。ルイ7世が十字軍に出ているあいだは、王国の摂政を務めている。

シュジェールは、古く手狭になった聖堂の建て直しに取りかかった。まず西の正面を作り直して1140年に献堂し、続いて東の奥、祭壇のある内陣に手をつけた。工事は4年足らずで進み、1144年6月11日、ルイ7世と王妃エレノア・オブ・アキテーヌ、多くの司教が見守る中で、新しい内陣が献堂された。
その内陣が、それまでの聖堂と違っていた。それまでの建て方、のちにロマネスクと呼ばれる様式では、石の天井の重さを厚い壁で受け止める。壁に大きな穴を開ければ崩れるので、窓は小さく、堂内は薄暗い。サン・ドニの内陣では、先のとがったアーチと、石の肋骨を組んで天井を支えるリブ・ヴォールトを組み合わせ、重さを細い柱に集めた。壁が重さを支える役目から解かれ、その分を大きな窓にできた。

祭壇のまわりをめぐる通路の外側には、小さな礼拝堂が花びらのように連なり、その壁のほとんどがステンドグラスになった。シュジェールはこれを、絶えることのない光で堂内を満たす窓、と誇らしげに書いている。
窓には、聖書の物語や聖人の生涯が色ガラスで描かれた。文字を読めない人々も、光の中に浮かぶ絵を見上げて物語をたどることができた。厚い壁に小さな窓しか持たない、クリュニー(クリュニー修道院の創立)の流れをくむロマネスクの堂内では望めなかった光だった。

背景には、シュジェールの光の考えがあったとされる。神は光であり、目に見える美しい光は、人の心を見えない神の光へと導く。彼は青銅の扉に、鈍い心は物質を通して真理へと昇る、という意味の銘を刻ませた。宝石をちりばめた祭具を集め、建て直しの経緯を自ら書き残してもいる。この光の考えには、古代末期の神秘思想の影響が指摘されてきたが、どこまで直接の関わりがあったかは議論がある。
豪華さには批判もあった。同じ時代のシトー会の修道士ベルナルドゥスは、修道院が金や宝石で飾り立てることを厳しく戒めていた。シュジェールの書き物には、その批判への答えの意味もあったと見られている。

新しい建て方は、たちまち北フランスに広がった。サンス、ノワイヨン、ラン、そして1163年に着工したパリのノートルダム大聖堂。12世紀の後半には、外側から壁を斜めに支える飛梁が考え出され、天井はさらに高く、窓はさらに大きくなった。シャルトル大聖堂の青いステンドグラス(シャルトルの青)、ランス、アミアンと、聖堂は高さを競っていく。
競争には限界もあった。ボーヴェの大聖堂は内陣の天井を48メートルまで上げたが、1284年に一部が崩れ落ちた。建て直されたものの、身廊は結局造られないまま終わった。

「ゴシック」という呼び名は、後のイタリアの人々が、古代の美を知らない北方の野蛮なゴート人の様式という意味で付けた蔑称だった。サン・ドニの聖堂もその後、13世紀に身廊が建て替えられ、フランス革命では王の墓が暴かれた。それでも1144年の内陣の一部は今も残り、ヨーロッパの天井が光に向かって高くなり始めた場所を示している。
2019年には、サン・ドニの後を継いで建てられたパリのノートルダム大聖堂が火災に遭い、屋根と尖塔を失った(ノートルダム大聖堂の火災)。再建には、中世の職人の技法を学び直す作業が伴った。800年前の建て方は、いまも学ぶべき技術として受け継がれている。