オランダの黄金時代

概要
株式会社と証券取引所が生まれ、小国が世界の海運を握った。レンブラントもこの時代の人。
場所
52.37°N 4.90°E · オランダ
本文
17世紀のネーデルラント連邦共和国は、人口150万から200万ほどの小さな国だった。それがバルト海の穀物からアジアの香辛料まで、ヨーロッパの海上輸送の大きな部分を握った。王のいない共和国で、商人が政治を動かし、市民が絵を買った。この100年ほどを、オランダでは黄金時代と呼ぶ。
出発点は独立戦争である。1568年、ネーデルラントの諸州はスペインのフェリペ2世の支配に反旗を翻した。1579年に北部の7州がユトレヒト同盟を結び、事実上の独立国になる。1585年に南部の商業の中心アントウェルペンがスペイン軍に落ちると、そこの商人や職人、プロテスタントの多くが北へ逃げ、アムステルダムに資本と技術が集まった。独立が正式に認められるのは、1648年のミュンスター講和である。

もとからの強みは、北海のニシン漁と、バルト海から穀物や木材を運ぶ中継の商売だった。オランダ人はこれを「母なる交易」と呼んだ。1590年代にはフライト船が作られた。船倉が大きく、帆の操作が簡単で、少ない乗組員で多く運べる。造船は風車で動く製材機に支えられ、他の国より安く船を作れた。
その上に、新しいお金の仕組みが乗った。1602年にオランダ東インド会社の設立、航海ごとに清算するのではなく、何年も続く会社として広く資金を集めた。その持ち分を売り買いする場としてアムステルダム取引所が開かれ、1609年には為替銀行ができて、各国のばらばらな貨幣を帳簿の上の預金でやりとりできるようにした。安い金利で金を借りられることが、海運と戦争の両方を支えた。東インド会社は香辛料を独占するために武力も使い、バンダ諸島の虐殺と香辛料の独占のような暴力も伴った。アジアへの航路の補給地として、のちにケープ植民地の設置も置かれる。日本との交易を続けたのも、ヨーロッパの国ではオランダだけだった。

もう一つの理由として挙げられるのが、信仰への比較的な寛容である。国の教会は改革派だったが、カトリックやユダヤ教徒も、表立たなければ信仰を続けられた。スペインやポルトガルを追われたユダヤ人、フランスのユグノーが移り住み、商売の人脈と技能を持ち込んだ。出版の検閲もゆるく、他の国で出せない本がここで刷られた。ルネ・デカルトは20年余りこの国に住み、バールーフ・スピノザもここで書いた。グロティウス『戦争と平和の法』で知られるグロティウスは、海は誰のものでもないと論じた。
学問と技術も伸びた。ライデン大学は医学や植物学でヨーロッパ中から学生を集めた。ホイヘンスは振り子時計を作り、デルフトの織物商レーウェンフックは自作の小さなレンズで、水の中にうごめく微生物を初めて記録した。航海に要る地図と地球儀の製作でも、アムステルダムは中心地になった。

絵の世界も変わった。教会や王侯ではなく、商人や職人の家が絵を買った。そのため題材が、肖像、風景、静物、台所や酒場の日常になる。レンブラント・ファン・レインは市民の自警団を描いた「夜警」を残し、ヨハネス・フェルメールはデルフトの部屋に差し込む光を描いた。ハールレムのハルスは笑う人の一瞬をとらえた。どれほどの数の絵が描かれたかの推計には幅があるが、絵が市場で売り買いされる商品になったことは確かである。
繁栄は投機も生んだ。1630年代には珍しいチューリップの球根の値が跳ね上がり、1637年2月に崩れた(チューリップ・バブル)。どれほど社会を揺るがしたかについては、のちの語りが大げさにしたという見方もある。

勢いが止まったのは17世紀後半である。イギリスは1651年の航海法でオランダの中継貿易を締め出しにかかり、三度の英蘭戦争が起きた。1672年にはフランスとイギリスなどが同時に攻め込み、オランダで「災厄の年」と呼ばれる。指導者のデ・ウィット兄弟は群衆に殺され、オラニエ公ウィレム3世が国を率いた。1688年には彼がイギリスの王位に就く。オランダはその後も豊かな国であり続けたが、海の覇権はしだいにイギリスへ移っていった。