できごと

ロンドン大火

Great Fire of London
AD1666年9月2日
重要度 5
ロンドン大火に関わる図版:Great Fire London
Great Fire London Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

概要

プディング・レーンのパン屋から、日曜の未明。東風。木の家、狭い道、乾いた夏。4日。市壁の内側の8割、1万3200軒、教会87、セント・ポール大聖堂。死者は記録では6人(実際はもっと多いはず)。ピープスが日記に書いた。ペストの翌年で、鼠が焼けて疫病が終わった、という話は俗説。レンが51の教会と新しいセント・ポールを建てた。建物は煉瓦と石に。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

クリストファー・レンAD1632年10月20日–AD1723年2月25日 · 再建した

本文

1666年のロンドンは、つらい年の後にあった。前の年、ペストの大流行で、ロンドンとその周辺では10万人近くが死んだとされる。イングランドはオランダと戦争中で、1660年に王政が復古してチャールズ2世が王位に戻ってから、まだ6年しか経っていなかった。中世以来の市壁に囲まれた「シティ」には、木と漆喰で作った家々が、上の階ほど道へ張り出して並び、向かいの家と屋根が触れ合いそうなほど路地は狭かった。その夏は暑く、雨が少なかった。

9月2日、日曜日の午前1時ごろ、ロンドン橋の北のプディング・レーンにある、王室御用達のパン屋トマス・ファリナーの店から火が出た。竈の火の不始末とされる。家族は窓から屋根伝いに隣家へ逃げたが、女中が一人逃げ遅れ、最初の犠牲者になった。起こされて駆けつけた市長のブラッドワースは、この程度の火なら女が小便をすれば消せる、と言い捨てて寝床に戻ったと伝えられる。火は強い東風にあおられ、テムズ川沿いの倉庫街へ燃え移った。倉庫には油、獣脂、ブランデー、石炭、麻、材木が積まれていた。

対岸のSouthwark方面からロバート・チャプマン著の “Book of Days” より
対岸のSouthwark方面からロバート・チャプマン著の “Book of Days” よりWikimedia Commons Public domain

当時の消火は、革のバケツと手押しのポンプ、そして燃え広がる先の家を壊して火の通り道を断つことしかなかった。ところが、家を壊せば持ち主に補償しなければならない。市長はそれをためらい、時を失った。日曜の朝、海軍の役人サミュエル・ピープスは、ロンドン塔に登って燃える町を見下ろし、その足で船を使って宮殿のあるホワイトホールへ向かい、王に報告した。家を壊さなければ火は止まらない、と。チャールズ2世は市長に家を取り壊すよう命じたが、火の勢いはすでに人の手に負えなくなっていた。川には家財を積んで逃げる船がひしめき、ピープスは日記に、鳩たちが窓辺を離れずに羽を焼かれて落ちていく様子を書きとめている。

月曜になると、王と弟のヨーク公ジェームズが自ら消火の指揮を執った。王が泥だらけになってバケツを運んだという話も残っている。火曜日には、火はシティの中心に達した。夜、セント・ポール大聖堂の屋根に火がつき、屋根を葺いていた鉛が溶けて川のように流れ下り、石が熱で弾けた。周りの書店の主たちは、売り物の本を大聖堂の地下に運び込んで避難させていたが、それも燃えてしまった。火曜日から、海軍の造船所から運んだ火薬で家々を吹き飛ばし、火除けの空き地を作る作業が本格的に始まった。水曜日、ようやく風が弱まり、火は空き地で食い止められた。木曜日には、ほぼ消えた。

童謡「ロンドンが燃えている」の楽譜
童謡「ロンドンが燃えている」の楽譜Wikimedia Commons Traditional · Public domain

焼けたのは、市壁の内側のおよそ5分の4と、壁の外の一部だった。家屋は1万3200戸、教区教会は87、セント・ポール大聖堂、市庁舎ギルドホール、王立取引所、税関、ニューゲート監獄などが焼け落ちた。家を失った人は7万から8万人とされる。人々は北の郊外のムーアフィールズなどの野原に逃れ、テントや小屋で冬を越した。

記録に残る死者は6人にすぎない。しかし、身元の分からない貧しい人々の死は記録されず、高い熱で遺体も残らなかったのではないかとして、実際の死者はずっと多かったと考える研究者もいる。その数は分からない。

クラース・ヴィッセルによる1616年のロンドンの眺望図
クラース・ヴィッセルによる1616年のロンドンの眺望図Wikimedia Commons Claes Van Visscher · Public domain

人々は犯人を探した。オランダ人、フランス人、そしてカトリック教徒が疑われ、外国人が町で襲われた。フランス人の時計職人ロベール・ユベールは、自分が火を放ったと自白して絞首刑にされた。ところが後に、彼がロンドンに着いたのは火事が始まった後だったことが分かった。精神を病んでいたとされる。火元の近くには、のちに火事を記念する石の柱、モニュメントが建てられた。設計はレンとフックで、高さは約61メートル、柱の根元から火元のパン屋までの距離と同じに作られている。1681年、カトリック教徒への反感が高まる中で、柱の碑文に、火事はカトリックの陰謀だったという文言が加えられた。それが削られたのは1830年のことである。

火が消えて数日のうちに、何人もの人が新しいロンドンの計画を王に差し出した。数学者で建築家のクリストファー・レン(クリストファー・レン)、科学者のロバート・フック(『ミクログラフィア』)、文筆家のイーヴリンらである。レンの案は、広場から放射状に広い大通りを伸ばす、大陸の都市のような計画だった。しかし、焼け跡の一つひとつの土地には持ち主がいて、権利を整理する時間も金もなかった。町は、ほぼ元の道筋のまま、いくらか道幅を広げて建て直された。

ヴェンツェル・ホラーによる1647年のロンドンの眺望図(バンクサイドから)
ヴェンツェル・ホラーによる1647年のロンドンの眺望図(バンクサイドから)Wikimedia Commons Wenceslaus Hollar · Public domain

その代わり、1667年の再建法は家の建て方を変えた。新しい家は煉瓦か石で建て、道へ張り出す木の上階は禁じられ、道の格ごとに建物の高さと壁の厚さが定められた。測量と監督には、フックらがあたった。焼けた教会のうち51の教会が、レンの設計で建て直された。そして1675年、新しいセント・ポール大聖堂の建設が始まり、35年後の1710年に、巨大な円屋根を持つ大聖堂がほぼ完成した。レンはその地下に葬られ、墓碑には、記念碑を探すなら周りを見よ、という意味のラテン語が刻まれている。

大火は、火事に備える新しい仕組みも生んだ。建物の損害に保険をかける商売が始まり、保険会社は自前の消防隊を持つようになった(火災保険と火災標)。9年前の1657年には、江戸でも明暦の大火が町の大半を焼いていた。木の都市が燃え、その後に防火の町づくりが始まるという点で、二つの大火はよく似ている。ピープスは、火事の中で日記や書類を運び出し、庭に穴を掘って、ワインとパルメザン・チーズを埋めた。火事のおかげで鼠が焼け死んでペストが終わったという話がよく語られるが、俗説である。ペストの流行は火事の前にすでに下火になっており、流行のひどかった郊外の貧しい地区の多くは焼けていない。

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