できごと

レニャーノの戦い

Battle of Legnano
AD1176年5月29日
重要度 3
レニャーノの戦いに関わる図版:BattagliaLegnano
BattagliaLegnano Wikimedia Commons The original uploader was Faberh at Italian Wikipedia . · Public domain

概要

皇帝バルバロッサの騎士を、北イタリアの都市同盟の歩兵が破った。皇帝は落馬して死んだと思われ、数日後にパヴィアに現れた。都市が皇帝から自治を勝ち取り、イタリアの国歌にこの名が出てくる。

場所

レニャーノ
45.59°N 8.91°E · イタリア・ロンバルディア州

関わった人(1)

フリードリヒ1世(バルバロッサ)AD1122年頃–AD1190年6月10日 · 皇帝

本文

12世紀の北イタリアは、ヨーロッパで最も豊かな地域の一つだった。ミラノ、クレモナ、ブレシア、ベルガモ、パヴィアといった町は、商業と手工業で栄え、市民が選んだ執政官(コンソリ)が町を治める自治都市(コムーネ)になっていた。名目の上では、北イタリアは神聖ローマ帝国の一部であり、皇帝がイタリア王を兼ねる。だが叙任権闘争で皇帝の力が揺らいだカノッサの屈辱以来、皇帝の権利は事実上、町々の手に移っていた。

1152年にドイツ王となり、1155年に皇帝に戴冠したフリードリヒ1世(バルバロッサ)は、それを取り戻そうとした。赤い髭から「バルバロッサ」と呼ばれた皇帝は、生涯に6度アルプスを越えてイタリアに遠征している。1158年、ピアチェンツァ近くのロンカリアで開いた帝国議会で、皇帝はボローニャの法学者たちにローマ法を調べさせ、裁判権、関税や通行税の取り立て、貨幣の鋳造、役人の任命といった権利(レガリア)は皇帝に属すると宣言させた。町々は、それまで自分たちが握ってきた権利を差し出すよう求められたのである。

レニャーノの戦い(マッシモ・ダゼーリオ画、1831年)
レニャーノの戦い(マッシモ・ダゼーリオ画、1831年)Wikimedia Commons Massimo d'Azeglio · Public domain

最も強く逆らったのがミラノだった。皇帝は1159年からミラノを包囲し、1162年に降伏させると、住民を町から追い出し、城壁と建物を打ち壊させた。畑に塩をまいたという話も伝わるが、これは後の時代の伝説とされる。ミラノと争っていたパヴィアやクレモナなどの町は、皇帝の側に立って破壊に加わった。

だが皇帝の締めつけは、やがて町々を一つにまとめた。皇帝が送り込んだ代官たちは重い税を取り立て、皇帝の側についた町まで不満を募らせた。1167年、クレモナ、ベルガモ、ブレシア、マントヴァ、そして再建の始まったミラノなどが手を結び、ロンバルディア同盟を作った。同じ年、皇帝のローマ遠征の軍に疫病が広がり、多くの兵と諸侯が死んで、皇帝は命からがらドイツへ逃げ帰っている。同盟には、皇帝と対立していた教皇アレクサンデル3世が後ろ盾についた。同盟が皇帝の進路を断つために新しく築いた町は、教皇の名を取ってアレッサンドリアと名づけられた。

アモス・カッシオーリ「ポンティーダの誓約」(1885年)。
アモス・カッシオーリ「ポンティーダの誓約」(1885年)。Wikimedia Commons Amos Cassioli · Public domain

1174年、皇帝は5度目のイタリア遠征に出て、アレッサンドリアを包囲したが、落とせなかった。皇帝は、ドイツで最も力のある諸侯、ザクセン公ハインリヒ獅子公に援軍を求めたが、獅子公は断った。手勢の足りないまま、皇帝はドイツから来た少数の援軍と合流しようとミラノの北西へ向かった。

1176年5月29日、ミラノの北西30キロほどのレニャーノの近くで、皇帝の軍と同盟の軍がぶつかった。皇帝の手勢は騎士を中心に3000ほどだったと推定される。同盟の騎兵は最初の突撃で崩されたが、ミラノの歩兵たちは、町の旗と祭壇を載せた大きな牛車「カロッチョ」の周りに集まり、槍を並べて踏みとどまった。カロッチョは都市の誇りの象徴で、これを奪われることは町の恥とされた。騎士たちが歩兵の槍ぶすまを破れずにいるうちに、立て直した同盟の騎兵が戻ってきて、帝国軍の側面を突いた。

アモス・カッシオーリ「レニャーノの戦い」(19世紀)。カロッキオ(右後方)を防衛する「死の中隊」の奮戦が描かれる。
アモス・カッシオーリ「レニャーノの戦い」(19世紀)。カロッキオ(右後方)を防衛する「死の中隊」の奮戦が描かれる。Wikimedia Commons Amos Cassioli · Public domain

乱戦の中で皇帝は馬から落ち、姿が見えなくなった。旗も奪われ、帝国軍は総崩れになって敗走した。皇帝は死んだと思われ、パヴィアにいた皇后ベアトリクスは喪服を着たという。ところが数日後、皇帝はパヴィアにひょっこり姿を現した。

戦場で負けたことで、皇帝は武力で町々を従わせる道をあきらめた。1177年、皇帝はヴェネツィアで教皇アレクサンデル3世と和解し、それまで立てていた対立教皇を見捨てた。サン・マルコ大聖堂の前で、皇帝は教皇の足元にひざまずいたと伝えられる。同盟とは6年の休戦を結び、1183年のコンスタンツの和約で、町々が執政官を選び、レガリアを行使する権利を認めた。町々は皇帝への忠誠を誓い、名目の上での宗主権は皇帝に残ったが、実際の力は町々のものになった。北イタリアは、それぞれの町が国のように振る舞う世界へと進み、のちのルネサンスの舞台が整っていく。皇帝はその後、1190年に第3回十字軍の途上、小アジアの川で溺れて死んだ。

中世の図に描かれたフリードリヒ1世(バルバロッサ)
中世の図に描かれたフリードリヒ1世(バルバロッサ)Wikimedia Commons unknown illustrator · Public domain

レニャーノの戦いは、19世紀にあらためて掘り起こされた。オーストリアの支配からの独立とイタリアの統一を目指す人々は、この戦いを、外国の皇帝に団結して勝った民族の記憶として語った。ジュゼッペ・ヴェルディは1849年、革命のさなかのローマでオペラ『レニャーノの戦い』を初演した。1847年に作られ、いまイタリアの国歌となっている「イタリアの兄弟」の第4節には、アルプスからシチリアまで至るところにレニャーノがある、という一句がある。カロッチョを守った「死の部隊」とその指揮者アルベルト・ダ・ジュッサーノの話は、14世紀以降の年代記に初めて現れるもので、実在は確かめられていない。それでもレニャーノの町には、剣を掲げるアルベルトの像が建ち、毎年5月の終わりには、町の地区ごとに競う中世の祭りが開かれている。

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