カホキアの繁栄
概要
ミシシッピ川流域の巨大な土塁都市。人口は当時のロンドンに匹敵したとされ、北米最大の遺跡になる。
場所
38.66°N -90.06°E · アメリカ合衆国・イリノイ州
本文
北アメリカの中ほど、ミシシッピ川の東岸、いまのセントルイスの街の対岸に、草に覆われた大きな丘がいくつも並ぶ土地がある。カホキアと呼ばれるこの遺跡は、11世紀から13世紀にかけて、メキシコより北のアメリカ大陸で最大の町だった。
この地域には、ミシシッピ文化(ミシシッピ文化)と呼ばれる人々が暮らしていた。9世紀から10世紀にかけて、トウモロコシの栽培が広がり、川の氾濫が運ぶ肥えた土の上で、多くの人を養えるようになっていた。1050年ごろ、カホキアは急に大きくなる。周りの村から人が集まり、町の作りが短い期間に一つの計画に沿って造り直された。研究者の中には、これを「ビッグバン」と呼ぶ者もいる。

町の中心には、マウンドと呼ばれる土を盛った塚が築かれた。遺跡全体で120ほどが確認されている。最も大きいのはモンクス・マウンドで、高さはおよそ30メートル、底面は南北300メートル近く、東西240メートルほどある。底面の広さはギザの大ピラミッドを上回る。使われた土は60万立方メートルを超えると推計され、そのすべてが、籠で運ばれた。金属の道具も、車輪も、荷を引く大きな家畜も無かった。塚は一度に造られたのではなく、何段階にもわたって積み増され、頂上には大きな建物が建っていた。首長や、祭りを司る人々の住まいか、神殿だったと考えられている。
モンクス・マウンドの前には、平らにならされた大きな広場があった。そこでは、多くの人が集まる祭りや、チャンキーと呼ばれる競技が行われたとされる。石の円盤を転がし、その止まる位置めがけて棒を投げるもので、人々が賭けに熱中したことが後の時代の記録からも知られている。町の中心部は、12世紀に、木の杭を連ねた長い柵で囲まれた。柵は何度も造り直され、そのたびに膨大な数の木が切り出された。

マウンドの一つ、72号と呼ばれる塚からは、特別な埋葬が見つかった。一人の男性が、2万個ほどの貝殻のビーズを並べた上に葬られ、その周りに、多くの人々が一緒に埋められていた。その中には、若い女性ばかりが数十人まとめて葬られた穴もある。生贄として殺されたと考えられ、カホキアの支配者が強い力を持っていたことを示している。
遺跡の西には、太い木の柱を大きな円形に並べた跡がある。イギリスのストーンヘンジになぞらえて「ウッドヘンジ」と呼ばれる。円の中心から見ると、特定の柱の方向から春分と秋分、夏至と冬至の太陽が昇り、春分と秋分の日の出はモンクス・マウンドの方角に重なるとされる。暦を測り、祭りの日を決めるために使われたと考えられている。

人口は、中心部で1万から2万、周辺の村を含めると3万から4万に達したという推計がある。幅の大きい数字だが、同じころのロンドンの人口に匹敵するか、それを上回る。カホキアと同じ土器や道具は、ミシシッピ川の流域の遠くの土地からも見つかり、その影響が広い範囲に及んでいたことが分かる。同じころ、南西部の乾いた土地では、チャコ・キャニオンにも大きな集落が営まれていた(チャコ・キャニオンの大集落)。
13世紀に入ると、カホキアの人口は減りはじめ、14世紀の半ばまでに町はほとんど空になった(カホキアの放棄)。周りの森の切りすぎ、洪水、干ばつ、争い、社会の中の対立など、さまざまな原因が挙げられているが、決着はついていない。

17世紀の末にフランス人がこの地に来たとき、町はとうに無人になっていた。19世紀の初めには、トラピスト会の修道士たちが一時この大きな塚のそばに住み、そこからモンクス(修道士)の塚という名が付いた。当時のアメリカでは、これほどの土木工事を先住民ができたはずがない、失われた別の民族が造ったのだ、という説が広く信じられていた。先住民の土地を奪うことを正当化する偏見とも結びついた考えで、発掘が進むにつれて否定された。
遺跡のそばを高速道路が通り、塚の多くは開発で崩されたが、残った部分は1982年に世界遺産に登録された。北アメリカの先住民が、ヨーロッパ人の来るはるか前に大きな町を築いていたことを、いまに伝える場所である。