できごと

カホキアの繁栄

Height of Cahokia
AD1050年 – AD1350年
期間を持つできごと重要度 4
北極圏の海獣狩猟民デンマーク=ノルウェードーセット文化北米東部の狩猟採集民亜寒帯林の狩猟採集民平原のバイソン狩猟民アサバスカ諸族高原の漁労・狩猟採集民ミシシッピ文化北米太平洋岸の採集・狩猟・漁労民砂漠の狩猟採集民メソアメリカの都市国家と首長制社会カリブの狩猟採集民祖先プエブロInnuタイノBoethukマヤの諸都市国家トルテカCaloosahatchee cultureureAD1050年カホキア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1050年の版図を描いています(20勢力)。

概要

ミシシッピ川流域の巨大な土塁都市。人口は当時のロンドンに匹敵したとされ、北米最大の遺跡になる。

場所

カホキア
38.66°N -90.06°E · アメリカ合衆国・イリノイ州

本文

北アメリカの中ほど、ミシシッピ川の東岸、いまのセントルイスの街の対岸に、草に覆われた大きな丘がいくつも並ぶ土地がある。カホキアと呼ばれるこの遺跡は、11世紀から13世紀にかけて、メキシコより北のアメリカ大陸で最大の町だった。

この地域には、ミシシッピ文化(ミシシッピ文化)と呼ばれる人々が暮らしていた。9世紀から10世紀にかけて、トウモロコシの栽培が広がり、川の氾濫が運ぶ肥えた土の上で、多くの人を養えるようになっていた。1050年ごろ、カホキアは急に大きくなる。周りの村から人が集まり、町の作りが短い期間に一つの計画に沿って造り直された。研究者の中には、これを「ビッグバン」と呼ぶ者もいる。

モンクス・マウンド(2024年夏)
モンクス・マウンド(2024年夏)Wikimedia Commons Skubasteve834 · CC BY 4.0

町の中心には、マウンドと呼ばれる土を盛った塚が築かれた。遺跡全体で120ほどが確認されている。最も大きいのはモンクス・マウンドで、高さはおよそ30メートル、底面は南北300メートル近く、東西240メートルほどある。底面の広さはギザの大ピラミッドを上回る。使われた土は60万立方メートルを超えると推計され、そのすべてが、籠で運ばれた。金属の道具も、車輪も、荷を引く大きな家畜も無かった。塚は一度に造られたのではなく、何段階にもわたって積み増され、頂上には大きな建物が建っていた。首長や、祭りを司る人々の住まいか、神殿だったと考えられている。

モンクス・マウンドの前には、平らにならされた大きな広場があった。そこでは、多くの人が集まる祭りや、チャンキーと呼ばれる競技が行われたとされる。石の円盤を転がし、その止まる位置めがけて棒を投げるもので、人々が賭けに熱中したことが後の時代の記録からも知られている。町の中心部は、12世紀に、木の杭を連ねた長い柵で囲まれた。柵は何度も造り直され、そのたびに膨大な数の木が切り出された。

マウンド・ビルダーの都市(想像図)
マウンド・ビルダーの都市(想像図)Wikimedia Commons user:RHorning · Public domain

マウンドの一つ、72号と呼ばれる塚からは、特別な埋葬が見つかった。一人の男性が、2万個ほどの貝殻のビーズを並べた上に葬られ、その周りに、多くの人々が一緒に埋められていた。その中には、若い女性ばかりが数十人まとめて葬られた穴もある。生贄として殺されたと考えられ、カホキアの支配者が強い力を持っていたことを示している。

遺跡の西には、太い木の柱を大きな円形に並べた跡がある。イギリスのストーンヘンジになぞらえて「ウッドヘンジ」と呼ばれる。円の中心から見ると、特定の柱の方向から春分と秋分、夏至と冬至の太陽が昇り、春分と秋分の日の出はモンクス・マウンドの方角に重なるとされる。暦を測り、祭りの日を決めるために使われたと考えられている。

カホキアの中央広場の復元図、1050〜1350年頃の最盛期の様子
カホキアの中央広場の復元図、1050〜1350年頃の最盛期の様子Wikimedia Commons Thank You (24 Millions ) views · CC BY 2.0

人口は、中心部で1万から2万、周辺の村を含めると3万から4万に達したという推計がある。幅の大きい数字だが、同じころのロンドンの人口に匹敵するか、それを上回る。カホキアと同じ土器や道具は、ミシシッピ川の流域の遠くの土地からも見つかり、その影響が広い範囲に及んでいたことが分かる。同じころ、南西部の乾いた土地では、チャコ・キャニオンにも大きな集落が営まれていた(チャコ・キャニオンの大集落)。

13世紀に入ると、カホキアの人口は減りはじめ、14世紀の半ばまでに町はほとんど空になった(カホキアの放棄)。周りの森の切りすぎ、洪水、干ばつ、争い、社会の中の対立など、さまざまな原因が挙げられているが、決着はついていない。

モンクス・マウンドを描いた1882年の挿絵(実際とは異なる誇張された姿)
モンクス・マウンドを描いた1882年の挿絵(実際とは異なる誇張された姿)Wikimedia Commons W. R. Brink & Co. · Public domain

17世紀の末にフランス人がこの地に来たとき、町はとうに無人になっていた。19世紀の初めには、トラピスト会の修道士たちが一時この大きな塚のそばに住み、そこからモンクス(修道士)の塚という名が付いた。当時のアメリカでは、これほどの土木工事を先住民ができたはずがない、失われた別の民族が造ったのだ、という説が広く信じられていた。先住民の土地を奪うことを正当化する偏見とも結びついた考えで、発掘が進むにつれて否定された。

遺跡のそばを高速道路が通り、塚の多くは開発で崩されたが、残った部分は1982年に世界遺産に登録された。北アメリカの先住民が、ヨーロッパ人の来るはるか前に大きな町を築いていたことを、いまに伝える場所である。

出典(1)

チャールズ・C・マン(布施由紀子 訳) 『1491 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見』第2部(北米の都市)

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