できごと

モヘンジョダロの都市計画

Urban planning at Mohenjo-daro
紀元前25世紀
年に諸説あり重要度 4
紀元前25世紀モヘンジョダロ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている紀元前25世紀の版図を描いています。

概要

碁盤の目の街路と、各戸から通じる下水。宮殿も王墓も見つかっておらず、誰が統治したのか分かっていない。

場所

モヘンジョダロ
27.33°N 68.14°E · パキスタン・シンド州

本文

1920年代、インダス川下流のシンド地方で、仏教の塔の下から古い都市が掘り出された。モヘンジョ・ダロ、土地の言葉で「死者の丘」と呼ばれていた遺跡である。それより先に発掘が始まっていた北のハラッパーと同じ文明の都市であることが分かり、インダス文明の存在が世界に知られた(インダス文明)。その最盛期は紀元前2600年ごろから1900年ごろまでとされる。

モヘンジョ・ダロは、二つの部分からなる。西側には、人工的に高く盛り上げた土台の上に大きな建物が並ぶ「城塞」と呼ばれる区域があり、東側には、人々が暮らす広い市街地があった。市街地の大通りは、ほぼ東西南北に走り、碁盤の目のように町を区切っていた。人口は数万人と見積もられている。洪水に備えて、町全体が何度もかさ上げされた。

陸地を探すための方向探知鳥とボート。K. S. マシュー著「Shipbuilding, Navigation and the Portuguese in Pre-modern India」より モヘンジョダロ印章の模型、紀元前2500年から1750年
陸地を探すための方向探知鳥とボート。K. S. マシュー著「Shipbuilding, Navigation and the Portuguese in Pre-modern India」より モヘンジョダロ印章の模型、紀元前2500年から1750年Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

家々は、焼いた煉瓦で建てられていた。煉瓦の縦・横・厚さの比は、およそ4対2対1にそろえられ、この比率は数百キロ離れたほかの都市でもほぼ同じだった。家は通りに面して窓を少なくし、中庭を囲んで部屋が並ぶ造りで、2階建ての家も多かった。町には、数百もの井戸があったとみられている。

この都市を有名にしたのは、水の扱いである。多くの家には、煉瓦を敷いた沐浴の場所やトイレがあり、使った水は壁の中や床下の管を通って、通りの下を走る下水へ流れた。下水は煉瓦で組まれ、上を煉瓦や石の板で覆っていた。ところどころに、たまった泥や汚物を取り除くための溜め枡があり、定期的に掃除されていたとみられる。4500年前に、町じゅうの家をつなぐこれほどの下水を持った都市は、ほかにほとんど例がない。

インダス文明の主要遺跡と範囲
インダス文明の主要遺跡と範囲Wikimedia Commons US Federal Central Intelligence Agency (CIA) · Public domain

インダス文明のほかの都市でも、水への工夫は見られる。インド西部グジャラートのドーラヴィーラでは、雨の少ない土地で水を蓄えるための大きな貯水槽が岩を掘って造られ、ロータルでは煉瓦で囲った大きな水槽が見つかっている。後者は船着き場だったという説もあるが、異論も多い。ローマの集合住宅(ローマのインスラ(集合住宅))の時代よりも2000年以上前に、これだけの水の設備を持った町々がインダス川の流域に並んでいたことになる。

城塞の上には「大浴場」と呼ばれる施設がある。長さ約12メートル、幅約7メートル、深さ約2.4メートルの水槽で、両端に階段がつき、底と壁には煉瓦を隙間なく敷き詰め、さらに瀝青(天然のアスファルト)で水が漏れないようにしてあった。そばには井戸があり、排水のための大きな溝もある。何のための施設かは分かっていない。宗教的な清めの沐浴の場だったという説が有力だが、それを確かめる文字の記録は無い。近くの「穀物倉」と呼ばれてきた大きな建物も、本当に穀物を蓄えた場所だったかどうか、今では疑問が出されている。

モヘンジョダロの発掘調査(1924年)
モヘンジョダロの発掘調査(1924年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

遺跡からは、ろう石を彫って作った一辺数センチの印章が千点を超えて見つかっている。一角獣のような動物や牛の姿とともに、短い文字が刻まれているが、文字はまだ解読されていない。刻まれた文字列は平均して数文字しかなく、手がかりが少ないためである。重さの単位も統一されていて、立方体の石のおもりが、決まった比率で大小そろえられていた。

これだけ整った都市を、誰が計画し、誰が保ったのか。エジプトやメソポタミアの都市には、王の宮殿や墓、王の業績を刻んだ碑文がある。モヘンジョ・ダロには、それが見当たらない。ひげをたくわえた男性の小さな石像は「神官王」と呼ばれているが、その名は発掘者がつけたもので、本当に王や神官だったかは分からない。豪華な副葬品を伴う墓も見つかっていない。

『踊る少女』像(アルフレート・ナーヴラト撮影、1938年)
『踊る少女』像(アルフレート・ナーヴラト撮影、1938年)Wikimedia Commons Alfred Nawrath · Public domain

煉瓦の規格がそろい、下水が手入れされ続けたからには、それを決めて守らせる何らかの力があったはずである。それが一人の王だったのか、有力な家々の会議だったのか、商人や神官の集団だったのか、研究者の意見は分かれている。目立った権力者の姿を残さないまま、大きな都市を何百年も保った社会のあり方は、インダス文明の最大の謎の一つである。その仕組みが崩れていく過程は、インダス文明の衰退で扱う。

モヘンジョ・ダロは1980年に世界遺産に登録された。いま遺跡は、地下水が運ぶ塩分によって煉瓦が崩れていく危機にさらされている。発掘で地上に出た煉瓦は、4000年以上守られてきた土の覆いを失ったのである。

同じ時代のできごと

ストーンヘンジの完成紀元前25世紀
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC2451年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →