概要
天文学者。オックスフォードの天文学教授、王立協会の創設者の一人。「ニュートンがいなければ、レンが英国最高の科学者」。30歳で建築を始めた。大火のあと、ロンドンの再建計画(採用されず)、教会51、セント・ポール(1675〜1710年、自分の生きている間に完成した唯一の大聖堂建築家)、グリニッジ、ハンプトン・コート。90歳。セント・ポールの地下。「記念碑を探すなら、周りを見よ」。
関わったできごと(1)
ロンドン大火AD1666年9月2日 · 再建した本文
1632年、ウィルトシャーのイースト・ノイル。父は牧師で、ウィンザーの首席司祭。子供の頃から模型と機械。ウェストミンスター・スクール、オックスフォードのウォダム。ジョン・ウィルキンズの周りの「実験哲学クラブ」(王立協会の元)。解剖(犬に静脈注射をした、最初の一人)、透明な蜂の巣、天気の計器、月の模型、土星の輪の理論(ホイヘンスに先を越された)。1657年、グレシャム・カレッジの天文学教授(25歳)。1661年、オックスフォードのサヴィル天文学教授。1660年11月28日、彼の講義のあとの会合で、王立協会が始まった。1680〜82年、会長。ニュートンは『プリンキピア』で、彼を「当代の最も優れた幾何学者の一人」と挙げた。
建築。1663年、ケンブリッジのペンブルック・カレッジの礼拝堂(叔父の司教のため)。1664〜69年、オックスフォードのシェルドニアン劇場(ローマの劇場を、木の屋根で)。1665年、パリへ(ルーヴルの設計でベルニーニに会った。「ルーヴルの設計図を、老人は数分しか見せてくれなかった。私は目で写した」)。
1666年9月、大火。9月11日、レンは再建計画を王に出した(火事の6日後。ヴェルサイユ風の大通り、広場、テムズ川の岸の遊歩道)。イーヴリン、フック、ニューカートも出した。全部、採用されなかった。土地の権利が複雑で、待てなかった。1669年、王の建物の測量官(サーヴェイヤー・ジェネラル)。1673年、ナイト。
51の教会。セント・スティーヴン・ウォルブルック(ドーム)、セント・メアリ・ル・ボウ(尖塔)、セント・ブライド(「ウェディングケーキ」の尖塔)。ロバート・フックが助手で、多くはフックが設計した、と言われる。
セント・ポール。1668年、古い大聖堂は壊すことに。1670年、第1案(拒否)。1673年、「大模型」(ギリシア十字、ドーム。聖職者が「カトリック的」と拒否。模型は残っている)。1675年、「令状案」(ラテン十字、細い尖塔。王が「装飾の変更を認める」と書いたので、レンは建てながら変えた)。1675年6月21日、礎石。1708年10月26日、レンの76歳の誕生日、息子クリストファーが最後の石をランタンに置いた。1710年、完成宣言。35年。ドーム(内側の石のドーム、外側の木と鉛のドーム、その間に煉瓦の円錐がランタンを支える。三重)。高さ111メートル。レンは晩年、毎年、篭で引き上げられて、進み具合を見た。
ハンプトン・コート(1689〜94年、ウィリアムとメアリ)、ケンジントン宮殿、グリニッジ病院(1696年〜。退役水兵の。「イギリスで最も美しい建築群」)、チェルシー病院(退役兵)、グリニッジ天文台(1675年、フラムスティード)、トリニティ・カレッジ図書館(ケンブリッジ)、モニュメント。
1718年、86歳で測量官を解任された(ハノーヴァー朝の政治で)。1723年2月25日、ハンプトン・コートから、セント・ポールを見に行った帰り、風邪で、眠るように死んだ。90歳。セント・ポールの地下、南東の隅。息子が書いたラテン語の碑文。「読む者よ、記念碑を探すなら、周りを見よ(Lector, si monumentum requiris, circumspice)」。