人物

クリストファー・レン

Christopher Wren
AD1632年10月20日 – AD1723年2月25日(享年90)
イングランド重要度 4

概要

天文学者。オックスフォードの天文学教授、王立協会の創設者の一人。「ニュートンがいなければ、レンが英国最高の科学者」。30歳で建築を始めた。大火のあと、ロンドンの再建計画(採用されず)、教会51、セント・ポール(1675〜1710年、自分の生きている間に完成した唯一の大聖堂建築家)、グリニッジ、ハンプトン・コート。90歳。セント・ポールの地下。「記念碑を探すなら、周りを見よ」。

関わったできごと(1)

ロンドン大火AD1666年9月2日 · 再建した

本文

クリストファー・レンは1632年10月20日、イングランド南西部ウィルトシャーのイースト・ノイルで生まれた。父は同名の牧師で、のちにウィンザーの首席司祭となり、叔父マシューはイーリーの司教だった。王党派の聖職者の家である。少年時代から体は弱かったが手先が器用で、模型や計器を作ることに熱中した。

清教徒革命で国王が処刑され(清教徒革命と国王処刑)、一家が後ろ盾を失った時代に、彼はオックスフォードのウォダム・カレッジで学んだ。学寮長ジョン・ウィルキンズのもとには、実験と観察で自然を調べようとする学者たちが集まっていた。のちのロバート・ボイルらも加わったこの集まりで、レンは解剖学の実験に加わり、犬の静脈に薬を注射する試みにも関わった。ほかにも、天候を記録する計器、月面の模型、土星の輪の形の説明など、関心は尽きなかった。1657年、25歳でロンドンのグレシャム・カレッジの天文学教授となり、1661年にはオックスフォードの天文学教授に迎えられた。1660年11月28日、グレシャム・カレッジでのレンの講義の後に集まった学者たちが、実験による学問を進める会を作ろうと決めた。これが王立協会の設立の始まりで、彼は1680年から2年間、会長を務めた。アイザック・ニュートンは『プリンキピア』の中で、レンを当代の第一級の幾何学者の一人として名を挙げている。

清教徒革命と国王処刑に関わる図版:Battle of Naseby, hand-coloured copper engraving
清教徒革命と国王処刑Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

建築に手を染めたのは30歳の頃である。叔父の司教のためにケンブリッジのペンブルック・カレッジの礼拝堂を設計し、続いてオックスフォードのシェルドニアン劇場を手がけた。古代ローマの野外劇場を手本に、柱を立てずに大きな空間を覆う屋根を、木の梁を組む工夫で実現した。数学と力学の知識がそのまま設計に生きた。1665年から翌年にかけてはパリに滞在し、フランスの宮殿や教会を見て回った。ルーヴル宮の設計のために来ていたローマの巨匠ベルニーニにも会っている。図面を数分しか見せてもらえなかったが、そのためなら自分の皮を差し出してもよかった、と手紙に書いている。

帰国してまもない1666年9月、ロンドン大火が市の大半を焼いた。火が収まってわずか数日後、レンは新しいロンドンの計画図を国王チャールズ2世に差し出した。中世以来の入り組んだ路地を一掃し、広場から放射状に延びる大通りと、テムズ川沿いの河岸道を備えた都市である。ほかにも何人かが計画を出したが、どれも採用されなかった。焼け跡の土地には持ち主の権利が複雑に絡み合い、商人たちは一日も早く元の場所で商売を再開したがった。街はほぼ元の道筋のまま再建された。

ロンドン大火に関わる図版:Great Fire London
ロンドン大火Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

それでも、再建されたロンドンの顔を作ったのはレンだった。1669年に王の建築事業を統括する総監に任じられ、焼けた50あまりの教区教会の再建を指揮した。狭く不規則な敷地に合わせて一つずつ設計を変え、市の空に白い尖塔を林立させた。ドームを持つセント・スティーヴン・ウォルブルック、ウェディングケーキの形の由来になったと言われる段重ねの尖塔を持つセント・ブライドなどである。多くの教会で、王立協会の同僚ロバート・フックが助手として設計と現場を支えた。大火を記念する塔モニュメントも二人の仕事である。

最大の仕事は、焼け落ちたセント・ポール大聖堂の再建だった。最初の案は小さすぎるとして退けられ、次に出した、中央に巨大なドームを置くギリシア十字形の案は、大きな木製模型まで作られたが、聖職者たちから伝統にそぐわないと拒まれた。1675年、王の承認を得た案は、細長いラテン十字の平面に背の高い尖塔を載せた、ずっと控えめなものだった。ただし王の許可書には、装飾については建築家が変更してよいという一文があった。レンはこれを最大限に使い、工事を進めながら設計を変え、最後には壮大なドームを載せた。外から見える鉛ぶきのドーム、内側から見上げる石のドーム、その間で頂上の塔の重さを支える煉瓦の円錐という三重の構造である。礎石は1675年6月21日に置かれ、1708年、頂上の最後の石が据えられた。設計から完成までを一人の建築家が見届けた大聖堂は珍しい。

ゴドフリー・ネラー画、クリストファー・レンの肖像
ゴドフリー・ネラー画、クリストファー・レンの肖像Wikimedia Commons Godfrey Kneller · Public domain

ほかにも、グリニッジの天文台と旧王立海軍病院、退役兵のためのチェルシー病院、ハンプトン・コート宮殿の増築、ケンブリッジのトリニティ・カレッジ図書館など、彼の手になる建物はイングランド各地に残る。

晩年は報われなかった。1718年、86歳の彼は、ハノーヴァー朝の新しい政権のもとで総監の職を解かれた。その後はハンプトン・コート近くの家で静かに暮らし、ときおり完成した大聖堂を見に出かけた。1723年2月25日、ロンドンで眠るように死んだ。90歳。遺体はセント・ポール大聖堂の地下に葬られた。墓の上の壁に、息子が書いたラテン語の碑文が刻まれている。読む者よ、もし彼の記念碑を探すなら、あたりを見回せ。ニュートンがいなければ英国最大の科学者になっていただろう、とも言われる人物が、後の世に記憶されたのは建築家としてだった。

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