カホキアの放棄
概要
北米最大の都市が、200年で人口を失った。洪水、森の消費、内紛、気候の寒冷化。理由は一つに絞れていない。
場所
38.66°N -90.06°E · アメリカ合衆国・イリノイ州
本文
北アメリカの真ん中、ミシシッピ川がミズーリ川と合流するすぐ下流の東岸に、「アメリカン・ボトム」と呼ばれる広い氾濫原がある。いまのイリノイ州、対岸にはセントルイスの町が見える。11世紀から12世紀にかけて、ここに北アメリカで最大の都市があった。いまはカホキアと呼ばれている。住んでいた人々が自分の町を何と呼んでいたかは分からない。カホキアという名は、ずっと後の時代にこの近くに住んだ先住民の集団の名から取られたものだ。
1050年ごろを境に、この地の村々は急速に一つの都市へとまとまった(カホキアの繁栄)。中心には、土を盛り上げて造った巨大な台状の丘がそびえる。高さは30メートルほど、底面はおよそ290メートルに240メートルあり、その広さはエジプトのギザの大ピラミッドの底面を上回る。のちにこの丘の上で修道士たちが暮らしたことから、いまは「修道士の丘」と呼ばれている。周りには大小100を超える土の丘が並び、広場と住居、木の柱を円く立てた暦の施設が配置されていた。最盛期の人口は1万から2万ほどと見積もられ、同じころのロンドンに匹敵した。人々はトウモロコシを主な作物とし(トウモロコシの栽培化)、この都市を中心とする文化は、ミシシッピ川の流域の広い範囲に広がった(ミシシッピ文化)。

だが12世紀の終わりごろから、人の数は減りはじめる。12世紀の後半には、都市の中心部をぐるりと囲む、高さ4メートルほどの丸太の柵が築かれた。柵には一定の間隔で見張りの櫓が設けられ、何度も建て直された。一度建てるのに、およそ2万本の丸太が必要だったと見積もられている。何から身を守るためだったのかは分からないが、周りの社会との争いや、内側の対立が深まっていたことをうかがわせる。13世紀には住む人がさらに減り、1350年ごろまでに、町はほぼ空になった。
なぜ人々は去ったのか。いくつもの説が出されてきた。一つは、環境の破壊である。周りの森を、燃料と建材と柵の丸太のために切り尽くした結果、雨水が一気に流れ下るようになり、洪水が増え、畑の土が流された、という説だ。湖の底にたまった泥の分析から、1200年ごろにミシシッピ川の大洪水があったことも分かっている。ただし、近年の土壌の調査では、人による森の破壊が洪水を招いたという証拠は見つからなかったという報告も出ていて、この説には異論がある。

気候の変化を挙げる研究者もいる。中世の比較的温暖な時代が終わりに向かい、北アメリカの中部では、日照りの続く年が増えた。トウモロコシに頼る大きな人口を支えることは、難しくなっていっただろう。同じころ、アメリカ南西部では、祖先プエブロの人々の大集落も相次いで放棄されている(チャコ・キャニオンの大集落、祖先プエブロ)。
社会の仕組みそのものが行き詰まった、とみる説もある。カホキアの繁栄は、強い指導者と、人々を結びつける信仰と儀礼の上に成り立っていた。丘の一つからは、貝殻のビーズを敷き詰めた上に葬られた男性と、多くの若い女性の遺体が見つかっていて、いけにえの儀式が行われていたとみられている。そうした力と信仰が揺らいだとき、人々が都市に住み続ける理由は失われたのかもしれない。いまでは、一つの原因ではなく、これらがいくつも重なったと考える研究者が多い。

人々は消えたのではなく、散っていったと考えられている。周りの小さな村へ、あるいは遠くの土地へ移り、その子孫はのちの先住民のさまざまな集団の中に溶け込んでいった。ミシシッピ川の中流の一帯では、15世紀ごろには人の住まない地域が広く現れたことも分かっている。
17世紀にフランス人がこの地を訪れたとき、土の丘は木々に覆われ、近くに住む人々もそれを誰が築いたのかを伝えていなかった。19世紀のアメリカでは、これほどの土木工事を先住民ができたはずがない、どこかから来て滅びた「失われた種族」が築いたのだ、という説が広く信じられた。それは、先住民から土地を奪い、西へ追いやる政策(涙の道)を正当化することにもつながった。1894年、スミソニアン協会の大規模な調査がこの説を退け、丘を築いたのはアメリカ先住民の祖先だと結論した。

20世紀に入っても、丘の多くは農地の開墾や道路と住宅の建設で崩されていった。保護が本格的に始まったのは20世紀の半ば以降で、1982年に世界遺産に登録された。かつて北アメリカ最大の都市だった場所は、いま、なぜ繁栄した町が人を失うのかを考えさせる遺跡として残っている。