テノチティトランの建設
概要
湖上の島に築かれた都。運河と浮き島の農地を備え、スペイン人が見たとき人口20万を超えていた。
場所
19.43°N -99.13°E · メキシコ・メキシコシティ
本文
アステカの名で知られる人々は、自らをメシーカと呼んだ。伝承では、彼らは北方のアストランという地から、部族神ウィツィロポチトリに導かれて長い旅をし、13世紀ごろメキシコ盆地に入った。盆地にはすでに多くの都市国家がひしめき、湖のほとりの良い土地はふさがっていた。かつてこの地に栄えたテオティワカンの隆盛やトルテカのトゥーラの記憶を継ぐ国々の中で、メシーカは遅れてきた傭兵の集団だった。
彼らはチャプルテペクの丘にいったん住みついたが、周りの都市に攻められて追われ、クルワカンの支配下に入った。伝承によれば、そこでもクルワカンの王女を生贄にしたことで怒りを買い、追い出されて湖の中の湿地へ逃げ込んだ。そこで、サボテンの上に止まる鷲を見つけた。それが神の示した都の場所だったという。鷲が蛇をくわえていたという部分は、後の時代の伝え方とされる。この図柄は、いまメキシコの国旗の中央に描かれている。

建設の年は伝統的に1325年とされるが、写本によって年代に差があり、確かなことは分からない。13年ほど後には、一部の集団が北隣の島に分かれてトラテロルコを建てた。初めのテノチティトランは、湖の西岸の強国アスカポツァルコに貢ぎ物を納める、小さな従属国にすぎなかった。
湿地の島は、暮らすには不便な土地だった。メシーカはここを造成して広げていった。湖の浅瀬に杭を打って囲い、底の泥と水草を積み上げて作る畑を、チナンパという。水がしみ込むので、トウモロコシや豆、カボチャを年に何度も作ることができた。チナンパは湖の南部でとくに大規模に作られ、都の食料を支えた。

都は、カルプリと呼ばれる血縁や地縁の集団ごとに区画されていた。各カルプリは自分たちの神殿と学校を持ち、土地を分け合い、戦のときには兵を出した。王(トラトアニ)は貴族の会議で選ばれ、もとはクルワカンの王家の血を引く人物が最初の王に迎えられたと伝えられる。トルテカの末裔とされる王家と結びつくことで、新参のメシーカは支配者としての正統性を得ようとしたのである。
1428年、メシーカは王イツコアトルのもとで、テツココ、トラコパンと三都市同盟を結び、アスカポツァルコを倒した。以後、同盟は盆地の外へ征服を広げ、メキシコ湾岸から太平洋岸まで、数百の町から貢ぎ物を取り立てるアステカの覇権が築かれた。都には各地から綿布、カカオ、羽根、翡翠が届き、トラテロルコの市場には毎日数万人が集まったとスペイン人は書いている。

都の整備も進んだ。15世紀の半ばには、テツココの王ネサワルコヨトルの助言で、長さ十数キロの堤防が湖を横切って築かれ、塩分の多い東の水が都のまわりに入り込むのを防いだ。チャプルテペクの泉からは、石の水道で真水が引かれた。島は3本の堤道で岸と結ばれ、中心には二つの神殿を頂く大神殿(テンプロ・マヨール)がそびえた。
大神殿の頂には、軍神ウィツィロポチトリと雨の神トラロクの二つの社が並んだ。戦争と農耕という、都を支える二つの柱である。神殿は王が代わるたびに外側から覆うように建て増され、少なくとも7回の拡張が確かめられている。神々に捧げる人身供犠もここで行われた。1487年の拡張の奉献では膨大な数の捕虜が生贄にされたと伝えられるが、伝わる数は数千から8万あまりまで開きがあり、誇張を含むとみられる。

1519年11月、エルナン・コルテスの一行が堤道を渡って都に入った。スペイン兵の一人ベルナル・ディアスは後年、湖に浮かぶ町と神殿を見て、騎士物語に出てくる魔法の光景のようだと思った、と回想している。人口は20万人前後とみる研究者が多い。当時のヨーロッパでも、これに並ぶ規模の都市はパリやナポリなど、ごく一部に限られた。都の主はモクテスマ2世だった。
その2年後の1521年、都は包囲の末に陥落した(テノチティトランの陥落)。スペイン人は廃墟の上にメキシコ市を築き、湖は植民地時代から20世紀にかけて干拓されて、ほとんど消えた。湖底の柔らかい地盤の上にある今のメキシコ市は、地下水の汲み上げもあって、年に数十センチ沈む場所もある。1978年、電気工事の作業員が市の中心で巨大な石の円盤を掘り当て、大神殿の跡が地下から姿を現した。