マヤ低地の崩壊
概要
南部の都市が次々に放棄された。干ばつ、戦争、環境の疲弊が挙げられるが、決着していない。
場所
17.22°N -89.62°E · グアテマラ
本文
古典期のマヤ低地には、ティカル、カラクムル、コパン、パレンケのような王都が並んでいた(マヤ古典期)。それぞれの都市を「聖なる王」が治め、王の即位や戦勝を石碑に刻んで、正確な日付を添えた。この日付の書き方がマヤの長期暦で、何年何月何日に何があったかを、王朝ごとに追うことができる。
その石碑の数は、8世紀の終わりに頂点に達する。長期暦の区切りにあたる790年前後には、多くの都市が記念碑を立てた。ところがそこから、記念碑を立てる都市が目に見えて減っていく。コパンでは9世紀の前半、ティカルでは869年ごろの石碑が最後になり、長期暦の日付としてわかっている最後のものは909年のトニナの記念碑である。

コパンでは、その終わり方が具体的にわかる。16代目の王ヤシュ・パサフは776年、初代から自分までの16人の王が並ぶ祭壇を刻ませ、王統が途切れず続いてきたことを誇った。彼が9世紀の初めに亡くなった後、822年に即位したとされる次の王の記念の祭壇は、彫りかけのまま残された。谷の調査からは、このころまでに周りの山の斜面の森がほとんど切り払われ、土が流れ出ていたことも分かっている。日付が途絶えたあと、王宮は使われなくなり、やがて都市そのものから人が去った。
南部低地の人口は、最盛期には数百万規模だったとされる。2018年に公表された航空レーザー測量では、グアテマラのペテン地方の密林の下に、6万を超える建物や畑、堤道、防壁の跡が見つかり、高い人口の見積もりを裏づけた。その人口の大部分が、9世紀から10世紀にかけて、ほぼ1世紀のうちに南部の中心地から消えた。

原因としてまず挙げられるのが干ばつである。ユカタン半島の湖の底の堆積物、ベネズエラ沖の海底の地層、ベリーズの洞窟の鍾乳石などから、この時期に数十年続く乾燥が何度も繰り返されたことがわかっている。マヤ低地には大きな川が少なく、雨季の雨を貯水池にためて乾季をしのいでいた。人口が限界近くまで増えていたところに雨が減れば、蓄えはもたない。
ただし、干ばつは北部のユカタン半島にもあった。もっと雨の少ない北部の都市が、同じ時期にむしろ栄えたことは、雨だけでは説明がつかないことを示している。

戦争の激化も確かめられている。カラクムルとティカルの戦争のような大国どうしの争いが続き、8世紀後半には、ペテシュバトゥン地方のドス・ピラスなどで、町を急いで防壁で囲った跡が見つかっている。後期の碑文は戦いと捕虜の記録が多くなる。森の伐採と土壌の疲弊も指摘されている。石灰を焼いて漆喰を作るのにも大量の木が要った。
近年の説明では、どれか一つではなく、これらが重なったと考えるのが主流である。王は雨を呼び、豊作をもたらす存在として権威を持っていた。干ばつが続き、戦に負け、飢えが広がれば、その権威そのものが疑われる。王が倒れると、王に仕えた書記や職人の仕事が無くなり、石碑も立たなくなる。崩壊したのは人々ではなく、聖なる王を中心とした都市の仕組みだった、という見方である。ただし、地域によって衰退の時期も事情も違い、全体を一つの物語で説明できるかについては、なお議論が続いている。
マヤの文明は、ここで終わったわけではない。北部のユカタン半島では、ウシュマルなどのプウク地方の都市や、チチェン・イッツァ(チチェン・イッツァの繁栄)が、南部の衰退と入れ替わるように栄えた。のちにマヤパンが北部の中心になり、スペイン人が来た16世紀にも、マヤの国々は分立していた。ペテンの湖の島にあったイツァの都ノフペテンが征服されたのは、1697年のことである。いまもグアテマラやメキシコ南部には、マヤ系の言語を話す人々が数百万人暮らしている。
密林に呑まれた南部の都市は、19世紀に欧米の旅行者に「再発見」された。その碑文が読めるようになるのは20世紀の後半で(マヤ文字の解読)、途絶えた日付の意味も、そこからようやく語られるようになった。