サンクトペテルブルクの建設
概要
沼地に西欧向けの窓として都を築いた。ロシアが強引にヨーロッパの一員になろうとする。
場所
59.93°N 30.36°E · ロシア
関わった人(1)
ピョートル1世AD1672年6月9日–AD1725年2月8日 · 当人本文
17世紀の末、ロシアには使える海の出口がほとんど無かった。北の白海の港アルハンゲリスクは一年の半分近くが氷に閉ざされ、バルト海の沿岸はスウェーデンが、黒海の沿岸はオスマン帝国が押さえていた。若い皇帝ピョートル1世は、1697年から翌年にかけて、身分を隠した使節団の一員としてオランダやイギリスを回り、自ら造船所で船大工として働いた。西ヨーロッパの技術と富を支えているのは海と船だ、というのが彼の結論だった。
1700年、ピョートルはスウェーデン帝国に戦いを挑んだ。北方戦争の始まりである。緒戦のナルヴァの戦いでは、若きスウェーデン王カール12世に大敗したが、ピョートルは軍を立て直し、カール12世がポーランドで戦っているあいだに、バルト海の奥のフィンランド湾へ兵を進めた。1703年5月、ネヴァ川の河口にあったスウェーデンの砦を落とすと、その下流の小さな島に、新しい要塞の礎を置いた。のちのペトロパヴロフスク要塞である。この日が、町の始まりとされる。町は守護聖人の使徒ペテロにちなんで名づけられ、オランダ語風の響きを持つ名が与えられた。

場所の条件は悪かった。ネヴァ川の河口は低い湿地と島々からなり、春には川の氷が溶けて洪水が起き、秋には西風が海水を押し上げて町を水浸しにした。冬は長く、暗く、凍りつく。周りには石も木材も乏しかった。それでもピョートルは、ここに海への窓を開くことにこだわった。
工事には、全国から農民が徴発され、スウェーデン軍の捕虜も働かされた。湿地に杭を打ち込み、土を盛り、運河を掘る作業は過酷で、飢えと寒さと病で多くの者が死んだ。死者の数は数万人とも言われるが、確かな記録はなく、推定には大きな幅がある。いずれにしても、町は「骨の上に築かれた都」と語り継がれることになった。
1709年、ピョートルはポルタヴァの戦いでカール12世を破り、北方戦争の行方は決まった。これで新しい町の安全も確かになった。1712年ごろから宮廷と政府の機関が移されはじめ、町はロシアの都になった。1721年の講和で、ロシアはバルト海の東岸を正式に手に入れ、ピョートルは皇帝(インペラートル)の称号を名乗った。

町は西ヨーロッパを手本に計画された。スイス出身のイタリア系の建築家トレッツィーニやフランスの建築家ルブロンが招かれ、運河を掘り、まっすぐな大通りを引き、石造りの建物を並べた。石工を集めるため、ほかの町では石造りの建物を建てることが一時禁じられた。貴族や富裕な商人には、この町に移り住んで家を建てることが命じられた。貴族たちにとって、慣れ親しんだモスクワを離れ、湿った新開地に屋敷を構えるのは大きな負担だった。
町の建設は、ピョートルの改革全体の象徴だった。彼は貴族に西洋風の服を着せ、伝統の長い顎ひげを剃らせた。ひげを残したい者には税を払わせ、払ったしるしの札を持たせた。官僚と軍人の位を家柄でなく勤めで決める官等表を定め、貴族の子弟に学校での教育を義務づけた。ロシアの社会は上から無理やり西へ向けられた。

ピョートルが1725年に死ぬと、宮廷はいったんモスクワに戻ったが、数年後には再びこの町が都になった。18世紀の後半、エカチェリーナ2世の時代には、冬宮をはじめとする壮麗な宮殿が並び、町はヨーロッパ有数の美しい都になった。エカチェリーナはピョートルの騎馬像を建てさせ、詩人プーシキンは1824年の大洪水を背景に、この像が貧しい青年を追いかける長い詩を書いた。
ペテルブルクは、ロシアの近代の舞台であり続けた。19世紀には、西欧に学ぶべきだと考える人々と、ロシア独自の伝統に立ち返るべきだと考える人々の論争が起きる。ピョートルの改革を評価するかどうかは、その論争の中心の問いだった。町は1914年にペトログラード、1924年にレニングラードと名を変え(三度、名を変えた都市)、ロシア革命の舞台となり、第二次世界大戦ではレニングラード包囲で多くの市民が飢えて死んだ。1991年、住民投票によってサンクトペテルブルクの名が戻った。沼地に開かれた窓は、300年を経て、なおロシアとヨーロッパの関係を映す町であり続けている。