できごと

サンクトペテルブルクの建設

Saint Petersburg
AD1703年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1703年の版図を描いています(28勢力)。

概要

沼地に西欧向けの窓として都を築いた。ロシアが強引にヨーロッパの一員になろうとする。

場所

サンクトペテルブルク
59.93°N 30.36°E · ロシア

関わった人(1)

ピョートル1世AD1672年6月9日–AD1725年2月8日 · 当人

本文

17世紀の末、ロシアには使える海の出口がほとんど無かった。北の白海の港アルハンゲリスクは一年の半分近くが氷に閉ざされ、バルト海の沿岸はスウェーデンが、黒海の沿岸はオスマン帝国が押さえていた。若い皇帝ピョートル1世は、1697年から翌年にかけて、身分を隠した使節団の一員としてオランダやイギリスを回り、自ら造船所で船大工として働いた。西ヨーロッパの技術と富を支えているのは海と船だ、というのが彼の結論だった。

1700年、ピョートルはスウェーデン帝国に戦いを挑んだ。北方戦争の始まりである。緒戦のナルヴァの戦いでは、若きスウェーデン王カール12世に大敗したが、ピョートルは軍を立て直し、カール12世がポーランドで戦っているあいだに、バルト海の奥のフィンランド湾へ兵を進めた。1703年5月、ネヴァ川の河口にあったスウェーデンの砦を落とすと、その下流の小さな島に、新しい要塞の礎を置いた。のちのペトロパヴロフスク要塞である。この日が、町の始まりとされる。町は守護聖人の使徒ペテロにちなんで名づけられ、オランダ語風の響きを持つ名が与えられた。

人工衛星写真サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した
人工衛星写真サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達したWikimedia Commons NASA · Public domain

場所の条件は悪かった。ネヴァ川の河口は低い湿地と島々からなり、春には川の氷が溶けて洪水が起き、秋には西風が海水を押し上げて町を水浸しにした。冬は長く、暗く、凍りつく。周りには石も木材も乏しかった。それでもピョートルは、ここに海への窓を開くことにこだわった。

工事には、全国から農民が徴発され、スウェーデン軍の捕虜も働かされた。湿地に杭を打ち込み、土を盛り、運河を掘る作業は過酷で、飢えと寒さと病で多くの者が死んだ。死者の数は数万人とも言われるが、確かな記録はなく、推定には大きな幅がある。いずれにしても、町は「骨の上に築かれた都」と語り継がれることになった。

1709年、ピョートルはポルタヴァの戦いでカール12世を破り、北方戦争の行方は決まった。これで新しい町の安全も確かになった。1712年ごろから宮廷と政府の機関が移されはじめ、町はロシアの都になった。1721年の講和で、ロシアはバルト海の東岸を正式に手に入れ、ピョートルは皇帝(インペラートル)の称号を名乗った。

ポルタヴァの戦いに関わる図版:Marten's Poltava
ポルタヴァの戦いWikimedia Commons Pierre-Denis Martin · Public domain

町は西ヨーロッパを手本に計画された。スイス出身のイタリア系の建築家トレッツィーニやフランスの建築家ルブロンが招かれ、運河を掘り、まっすぐな大通りを引き、石造りの建物を並べた。石工を集めるため、ほかの町では石造りの建物を建てることが一時禁じられた。貴族や富裕な商人には、この町に移り住んで家を建てることが命じられた。貴族たちにとって、慣れ親しんだモスクワを離れ、湿った新開地に屋敷を構えるのは大きな負担だった。

町の建設は、ピョートルの改革全体の象徴だった。彼は貴族に西洋風の服を着せ、伝統の長い顎ひげを剃らせた。ひげを残したい者には税を払わせ、払ったしるしの札を持たせた。官僚と軍人の位を家柄でなく勤めで決める官等表を定め、貴族の子弟に学校での教育を義務づけた。ロシアの社会は上から無理やり西へ向けられた。

1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図
1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図Wikimedia Commons Сonsociation "Prosveschenie", Saint Petersburg · Public domain

ピョートルが1725年に死ぬと、宮廷はいったんモスクワに戻ったが、数年後には再びこの町が都になった。18世紀の後半、エカチェリーナ2世の時代には、冬宮をはじめとする壮麗な宮殿が並び、町はヨーロッパ有数の美しい都になった。エカチェリーナはピョートルの騎馬像を建てさせ、詩人プーシキンは1824年の大洪水を背景に、この像が貧しい青年を追いかける長い詩を書いた。

ペテルブルクは、ロシアの近代の舞台であり続けた。19世紀には、西欧に学ぶべきだと考える人々と、ロシア独自の伝統に立ち返るべきだと考える人々の論争が起きる。ピョートルの改革を評価するかどうかは、その論争の中心の問いだった。町は1914年にペトログラード、1924年にレニングラードと名を変え(三度、名を変えた都市)、ロシア革命の舞台となり、第二次世界大戦ではレニングラード包囲で多くの市民が飢えて死んだ。1991年、住民投票によってサンクトペテルブルクの名が戻った。沼地に開かれた窓は、300年を経て、なおロシアとヨーロッパの関係を映す町であり続けている。

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