パルテノン神殿の完成
概要
ペリクレスのもとで15年かけて建てられた。同盟の資金が使われたことは当時も批判された。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
関わった人(1)
ペリクレスBC495年頃–BC429年 · 主導本文
アテナイのアクロポリスの上には、もとは別のアテナの神殿があった。紀元前480年、ペルシア軍がアテナイを占領し、丘の上の神殿を焼いた。直後のサラミスの海戦でギリシア側が勝ったあとも、焼け跡はしばらくそのまま残された。誓いによって、あえて再建しなかったとも伝えられる。
30年あまりのち、ペリクレスがその丘に新しい神殿を建てると決めた。紀元前447年に着工し、本体は9年ほどで建ち上がり、紀元前438年には神殿の中に巨大なアテナ像が納められた。破風やまわりの彫刻を仕上げ終えたのが紀元前432年ごろとされ、着工から数えて15年になる。

設計はイクティノスとカリクラテス、彫刻の全体を監督したのはフェイディアスとされる。素材はアテナイ近郊のペンテリコン山から切り出した白い大理石で、正面に8本、側面に17本の柱が並ぶドーリス式の神殿だった。中に立つアテナ・パルテノス像は金と象牙で作られ、高さは12メートル前後あったという。像そのものは失われ、ローマ時代の小さな写しで姿が分かるだけになっている。
この神殿は、直線がほとんど無いことで知られる。床は中央がわずかに膨らみ、柱はやや内側に傾き、柱の胴も中ほどが少し太い。まっすぐに作ると、遠目には床が沈み、柱が細く見える。その目の錯覚を、あらかじめ補正していると説明される。どこまでが錯覚の補正で、どこまでが雨水を流すためなどの実用かについては、研究者のあいだで見方が分かれる。

彫刻の主題は、アテナイの自己紹介のようになっている。東の破風にはアテナの誕生、西の破風にはアテナイの守護神の座をめぐるアテナとポセイドンの争い。外側の浮き彫りには、神々と巨人、ラピタイ人とケンタウロス、ギリシア人とアマゾンの戦いが並ぶ。秩序が混沌に勝つ物語で、ペルシアに勝ったアテナイ自身の姿が重ねられていると読まれる。
内側の壁の上を一周する長い帯状の浮き彫りには、馬に乗った若者、供え物の牛、水がめを運ぶ人々の行列が刻まれた。通説では、4年ごとのパンアテナイア祭でアテナに衣を捧げる行列を描いたものとされる。神話ではなく、同時代の市民の姿が神殿に彫られていることになる。ただし、これを神話の一場面と読む説もあり、解釈は一つに定まっていない。

費用は、ペルシアに備えて結ばれた同盟(デロス同盟の結成)の資金から出た。エーゲ海の諸都市が出し合った同盟の金庫は、紀元前454年にデロス島からアテナイへ移されていた。プルタルコスが伝えるところでは、ペリクレスの政敵たちは、同盟国の金で自分の町を着飾った女のように飾り立てている、と非難した。ペリクレスは、アテナイが同盟を守っている以上、使い道を説明する義務はないと答えたという。同盟が実質的にアテナイの帝国になっていたことを、この建物ほどよく示すものはない。
一方で、その金はアテナイの町を潤した。石切り場で働く人、石を運ぶ人、大工、彫刻家、金細工師。市民も、在留の外国人も、奴隷も、日当を受け取って工事に加わった。工事の会計は毎年石に刻まれて公開され、その断片がいまも残っている。民主政のアテナイでは、公の金の使い道を市民の前に示すことが求められていた。

いま見る白い大理石の姿は、完成当時のものではない。彫刻や軒の飾りには赤や青の彩色が施され、像には金属の飾りも付けられていた。表面に残るわずかな顔料の痕から、その色を復元する研究が進んでいる。
完成からまもなく、ペロポネソス戦争が始まる。開戦の翌年にはアテナイの疫病がアテナイを襲い、ペリクレス自身もその病で死んだ。フェイディアスは、像に使う金や象牙を横領したと告発されたと伝えられるが、その後の消息ははっきりしない。

神殿はその後も長く使われた。6世紀ごろにはキリスト教の聖母マリアの教会になり、15世紀にオスマン帝国がアテネを支配するとモスクになった。宗教が替わっても建物は壊されず、17世紀まではほぼ完全な形で残っていた。
1687年、ヴェネツィア軍がアテネを包囲した。オスマン軍は神殿を火薬庫に使っていた。そこへヴェネツィア軍の砲弾が命中して爆発し、屋根と壁の大部分、多くの柱と彫刻が吹き飛んだ。今日の、屋根の無い姿はこのときからになる。
19世紀の初め、オスマン帝国駐在のイギリス大使エルギン卿が、残っていた彫刻の多くを切り取ってイギリスへ運んだ。オスマン政府の許可を得たと主張したが、その文書の中身と効力は争われている。彫刻はイギリス政府が買い取り、いまも大英博物館にある。独立後のギリシアは返還を求め続け、2009年には丘のふもとに新しいアクロポリス博物館を開いて、帰ってくる日のための場所を空けて待っている。
1975年からは、ギリシア政府による大がかりな修復が続いている。19世紀の修復で石をつなぐのに使われた鉄の留め具が錆びて膨らみ、かえって大理石を割っていたことが分かり、それを一本ずつ外してチタンに替える作業から始まった。散らばった破片を元の位置に戻すため、一つ一つの石の形と割れ口を調べ上げる。2400年前の工事は15年で終わったが、その修復は半世紀たっても続いている。